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川本三郎氏、幻の掌編集についてインタビュー「バブルの頃から現在に至るまで、東京と波長がどんどん合わなくなってきた」

NEWSポストセブン 2024年10月27日 7時15分

【著者インタビュー】川本三郎さん/『遠い声/浜辺のパラソル 川本三郎掌篇集』/ベルリブロ/2640円

【本の内容】
 1987年、1992年、1999年に出版された単行本3冊の中から42編が収録されている。人生の折々を思い出しながら綴ったエッセイのような、詩のような、小説のような、味わい深い余韻が長く残る。《そのころ週に一回、明け方の町を歩くのを楽しみにしていた。(中略)昼間は人と車でいっぱいになる銀座も夜明けの四時、五時には誰もいない、からっぽの町だった》(「始発電車」より)。また別の一編では《八月のなかば、台風が去ったあとの早朝、隅田川に架かる隅田川大橋まで歩いた。仕事で泊まっている人形町の小さなホテルから橋までは歩いて十分ほど。台風のあとの水かさを増した川を見たかった》(「橋からの眺め」より)。著者とともに町を歩くうち、今はなくなった風景への痛惜と郷愁の念がずっしりと響く。

 映画や文芸評論で知られる川本三郎さんが、こんな掌編小説を書いておられたとは。新刊は、1980年代後半から1990年代に発表した3冊の本から作品を選び、1冊に編み直されたものだ。

「今年の7月で私は80歳になったんですけど、お祝いに何か本を出しましょうと言っていただいて。文芸評論の本にしようという話も出たんですが、地味なんだけど愛着のある掌編集があるんですよと編集者に話したら読んで気に入ってくれて、この本が出ることになりました。私がこういう掌編を書いてると知らない読者も多いんじゃないかと思うので、これを機に手に取ってもらえれば」

 もともとはエッセイを、という原稿依頼だったそうだが、発表から40年ほどたって読むと、エッセイでもあり短編小説でもある、味わい深い作品群である。

「エッセイは短編小説のように書くものだって、たしか山口瞳さんがおっしゃってたんですよね。その言葉がヒントになって、人生のある一日をピンで留めるようにして書いていきました。物書きになって50年近くになりますけど、今の自分に繋がるものがようやく書けるようになったのがこの頃なんです。それまでは、来る仕事を全部、闇雲に引き受けてましたから」

 日本がバブル経済に向かい、東京の街が次々、壊され、大きく変貌を遂げる時期でもある。

「私が永井荷風に興味を持って書き始めたのもちょうどバブルの最中なんです。私は昭和19年生まれで、子ども時代の昭和の風景がすごく好きだったのに、それがどんどん壊されていくのが嫌で。なるべく古い昭和が残っているところを歩こう、歩こうとしてたんです」

 ピン留めされているのは、たとえば昭和30年代の、少年時代に見た風景である。友だちの名前や身体に残る傷など、子どもの日の記憶は知らず知らず戦争と繋がっているのが印象に残る。

「赤ん坊だったので戦争そのものの記憶はもちろんないですけど、戦争という言葉にリアリティを感じる、最後の世代なんじゃないかと思います。私の10代は、戦争が終わり、焼跡闇市の混乱も収まって、ようやく木漏れ日がさしてきたような時代でした。

『東京ベルエポック』って私は呼んでるんですけど(笑い)、1980年代の下町を歩いていると、自分の子どもの頃の町の様子がまだ残ってたんですね。個人商店が健在で、横丁や路地があって、原っぱや銭湯が残っていて。懐かしさを感じながら歩いていました」

我々の世代までは、ものすごい体験をしている

 東京・杉並で生まれ育った川本さんが、本の中では、ひたすら東へ、水のあるほうへと向かっている。

「西東京で育っていますから、川のある風景をまったく知らなかったんです。それが荷風の影響で下町を歩くようになって、川沿いを歩くのはいいなと思うようになりました。

 東京の東に行くと隅田川があって、江戸川があり、中川があり、荒川があるでしょう。ほかにも、ちっちゃな掘割がいろいろあって、水のある風景になんだかすごく惹かれるようになっていったんですね」

 少年時代の友だちとの会話や街角でふと目にした風景を読み、記憶の確かさに驚嘆させられる。

「もちろんフィクションの部分もありますけどね。今の若い人たちは子ども時代と今とがほとんど地続きだと思うんです。そんなに変化がないでしょう? 我々の世代までは、戦争というものすごい体験をしているので、そのぶん記憶が鮮明になるんじゃないかという気がします」

 ひとつの記憶が呼び水となって、別の記憶に繋がっていく。川本さんの父は昭和20年に亡くなっているが、亡くなった父の不在が、「夜のショウウィンドウ」や「浜辺のパラソル」といった文章で、懐かしい母の姿とともに描かれているのも胸に残る。

「母は40歳ぐらいで未亡人になって、5人の子どもを抱えて、よく生き延びたと思います。私には父の記憶がまったくないんです。父親がいないのが当たり前だと思って育ってきて、いまだにイメージがつかめないんですけど、この本の文章を書いていたとき自分が死んだ父親の年を超えていることに気が付いたんです。

 そのときからものすごく父親を意識するようになりました。あくまで幻でしかないので、母親とのセットでしか書けないんですけど」

 いちばん好きな映画、イングマル・ベルイマンの『野いちご』を意識して書いた文章もあるそうだ。

「老人が朝起きて学位授与式に行く一日の映画なんですけど、これまでの人生を思い起こして、授与式を終えて眠りにつくときふっと少年時代を思い出す。あの手法をいくつか真似ています。なかなかベルイマンのようにはいきませんが」

 たしかに、収められた文章はどれも、映像がつよく喚起される。発表時には「詩小説」という言葉が使われていた。固有名詞がほとんど省かれているのは、できるだけ抽象的にしたかったからだそう。

 人間関係を描いた小説はあまり好みではない、と川本さん。

「太宰治は苦手、夏目漱石もどちらかというと苦手です。荷風が好きなのも、彼が『見る人』に徹しているから。『人間対人間』よりも『人間対風景』を書いたもののほうが好きですね」

 つげ義春から受けた影響も大きく、観光地でもなんでもない土地を1人で旅するようになったのも、つげから学んだことだという。

「私は東京の人間ですけど、バブルの頃から現在に至るまで、東京と波長がどんどん合わなくなってきています。今の渋谷なんかを歩くのも嫌で、東京でも神保町は古書店や個人の店があってまだいいんですけど、ここ数年はローカル線に乗って地方の小さな町ばかり歩いています。

 あとは台湾ですね。台湾の人にそう言うと、『台湾は東京よりもっとモダンです』と怒られちゃうんですけど」

【プロフィール】
川本三郎(かわもと・さぶろう)/1944年東京生まれ。新聞社勤務を経て評論家に。1991年『大正幻影』でサントリー学芸賞を、1997年『荷風と東京『断腸亭日乗』私註』で読売文学賞を、2003年『林芙美子の昭和』で毎日出版文化賞と桑原武夫学芸賞を、2012年『白秋望景』で伊藤整文学賞を受賞。近著に『ひとり遊びぞ我はまされる』や『映画の木洩れ日』など多数。訳書にカポーティ『夜の樹』『叶えられた祈り』、ブラッドベリー『緑の影、白い鯨』、ロンドン『ザ・ロード アメリカ放浪記』など。

取材・構成/佐久間文子

※女性セブン2024年11月7日号

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