Infoseek 楽天

作家・井上荒野氏、恋愛長編小説『だめになった僕』インタビュー 「愛というのは大抵思い込み。でも思い込むこと自体は美しくて、だから切ないんです」

NEWSポストセブン 2024年11月4日 7時15分

 視点人物は2人。実家のペンションを継ぐ傍ら漫画家として活動し、初サイン会を前に吉祥寺を4年ぶりに訪れた私、〈音村綾〉と、ふと気づくとその会場の前にいて、整理券を渡されるまま列に並んだ僕、〈祥川涼〉である。

 井上荒野氏の新作『だめになった僕』は、酒に溺れ、幻覚まで見えているらしい涼と、彼の姿を発見し、思わず目を伏せた綾の約8年ぶりの再会劇を描く〈1[現在]〉から始まる。

 物語はその後、[一年前][四年前][八年前]……と時を遡る形で進み、読者は当時20歳の綾と34歳の涼が吉祥寺〈ギャラリーいなだ〉のアルバイトと新進画家として出会った[十六年前]、さらに最終章の[現在]へと、過去を断片しか知り得ない彼らに関する多くの「なぜ」を追いかけることになるのだ。

 2人はどこで何を間違い、なぜあれほど惹かれながら結ばれなかったのか──。そんな「どこにでもありそうな、ありふれた恋愛や人生のありがたさ」をこそ、井上氏は逆行という手法を通じて描きたかったという。

「1つのきっかけとしては、半世紀以上前に書かれながらわりと最近になって再評価されている『ストーナー』という小説(J・ウィリアムズ著、1965年)を読んでみたら、平凡で冴えない国語教師の一生みたいな地味な小説なのに、本当に良くって。

 映画や演劇もそうですが、小説って何か起きたことを書こうとするじゃないですか。でも特別なことは何も起きない人生や、普通すぎて、人から見たら笑っちゃうような恋愛でも、緻密に丁寧に書いていけば十分小説になる。むしろ、こういうことだよな、人生って。そう思ったんですよね」

 もう1つのきっかけは、これも20年以上前に公開された映画『アレックス』(G・ノエ監督 2002年)だ。

「映画自体はそれほどいいとは思わなかったんですが、最初にある事件が起きて、そうなるに至る過程を少しずつ見せていく、逆回しの手法が印象に残っていて。

 例えば何も起きない話を逆回しで書いたら、ここでもしこんなことがなければこうはならなかったとか、ベースが普通でありふれた恋愛でも面白い小説になるんじゃないかと。どんな恋愛や人生もその人達だけに固有の、その人達だけのものなんだよなという思いで書いてみました」

 まずは[現在]の時点で、コミックサイトに〈「ありふれた人たちのここだけの話」〉を連載中の綾が、サイトの〈荒らし〉被害に遭っており、既に編集者が警告の表示や犯人の特定に動きだしているらしいことが分かる。また、作中のキャラクターである〈ブッダラタ〉が登場する日に限ってなぜかサイトが荒れることに気づいていた綾が、今回のサイン会に合わせてあえてそのキャラを登場させたことも明かされ、冒頭から嫌な予感しかしない。

 そして、〈涼さんへのメッセージ〉としてブッダラタを描いた綾は、サイン会の列に並ぶ彼を見つけるのだが、その後ろには信州から駆け付けた夫と幼い息子が手を振っていた。1人また1人と列が進み、ついに涼が先頭に立った瞬間、綾は突如、視界を失うのである。

人生ってホントあみだ籤みたい

 ここで少しだけ種明かしをすれば、ブッダラタというキャラクター名は16年前、綾が涼と初めて会った日に食べたイタリア産のチーズ、ブッラータに因み、食通のオーナー〈稲田さん〉からそれを白ワインと共に涼に勧めるよう言付かった綾が〈冷蔵庫に、ブッダなんとか、っていうのがあるらしくて〉と言った2人だけが知る出来事を背景に持つ。

「人って恋の始まりとか、最初のことは憶えてる。でも例えば私が最後に家族4人で食卓を囲んだ日のことは、父が翌日倒れるなんて思わないから憶えていないし、何が最後かは意外と忘れていたりするんです。

 それに『この人でないと絶対ダメ』なんていうのは大抵思い込みだという思いが、私の中の1つの思想としてあるんですね。愛は思い込み。でもその思い込むこと自体はやっぱり美しくて、だから切ないんです」

 それでも私達は、出会いの時点で既に涼に妻がいたことやその妻の妊娠など、始まるはずの恋が始まらなかった原因や犯人をつい探そうとしてしまう。だが結局は答えなどなく、時の不可逆性や人生のままならなさを、かえって突きつけられた思いすらするのである。

「タイトルは森田童子さんの『ぼくたちの失敗』(1976年)からの引用で、少し前にカーラジオから聞こえてきたフレーズをメモしておいたものなんです。失敗しない人生や絶対ダメにならない人生なんてないわけで、ダメになる時はなるんです。誰のせいとかでも全くなく。

 私自身、裁かない小説を常に書きたいと思っていて、ストーカーや依存症の人もそういう特殊な生物がいるわけじゃなく、基本的には自分の延長上にいるというのが私の考え方。何がきっかけで自分がそうなってもおかしくないし、みんなが同じだけの種を同じように持っていて、ほんの小さなことの連なりが何かを大きく変えてもいく。人生ってホント、あみだ籤みたいだなって、よく思うんです」

 涼が〈僕にかかわった者は、みんな死ぬ〉〈僕が綾を愛しすぎているせいで〉というほど追い込まれる前に何とかならなかったのかと、2人の16年間を知れば知るほど思わずにいられないが、それこそ彼らの恋や人生は彼らだけのもの。『ぼくたちの失敗』の歌詞を引くならば、みんなが少しだけ弱虫で、優しすぎたのだ。

「そう。みんなが、ね」

【プロフィール】
井上荒野(いのうえ・あれの)/1961年東京生まれ。父は作家の故・井上光晴。成蹊大学文学部英米文学科卒。2004年『潤一』で第11回島清恋愛文学賞、2008年『切羽へ』で第139回直木賞、2011年『そこへ行くな』で第6回中央公論文芸賞、2016年『赤へ』で第29回柴田錬三郎賞、2018年『その話は今日はやめておきましょう』で第35回織田作之助賞を受賞。その他『あちらにいる鬼』『百合中毒』『生皮 あるセクシャルハラスメントの光景』等話題作多数。2019年より八ヶ岳の麓に移住。163cm、O型。

構成/橋本紀子

※週刊ポスト2024年11月8・15日号

この記事の関連ニュース