10月8日、東京地裁で東京五輪をめぐる汚職事件の初公判が開かれた。贈賄罪に問われた前KADOKAWA会長の角川歴彦氏(81)は、無罪を訴えたうえでこう主張した。「『人質司法』で人権と尊厳を侵害された」──。角川氏は何を訴えかけているのか。刑事司法の闇に切り込んだ小説『人質の法廷』(小学館)の著者・里見蘭氏(55)と角川氏が、人質司法について語り合った。
角川:本日はお会いするのを楽しみにしていました。逮捕されてから2年、ようやく10月8日に東京地方裁判所で公判が始まりました。奇しくもその翌日には、静岡県で一家4人が殺害された事件で死刑が確定した袴田巌さんの再審無罪判決が決まった。日本司法史上、衝撃的な日でした。
僕は被告人陳述で、「僕は無罪です。これは冤罪です」と主張したところです。里見さんの『人質の法廷』は、司法のリアルが鋭く描かれた傑作ですね。
里見:私も226日間の拘置生活を綴った会長の手記『人間の証明』を拝読し、衝撃を受けました。『人質の法廷』を執筆するにあたって、8年近く人質司法を取材し、その現状を知ったつもりになっていましたが、実態はこれほど凄惨なのかと。
角川:国際連合が定めた国際人権法では「人の品位を貶める行為」を拷問と定義しています。被疑者の人権を認めない日本の刑事収容施設では現在でも拷問が行なわれているのです。そこに僕は226日間も留置された。
里見:被疑者自身の身柄を「人質」にして、自供を強引に引き出そうとする人質司法の典型です。そして、『人間の証明』を読んでいて特に驚いたのが、被疑者に対する拘置所の扱いです。警察の留置場が代用監獄と呼ばれるほど劣悪な環境だとは知っていました。一方で、法務省の管轄である拘置所は推定無罪の原則から、被疑者に配慮しているのではないかと思い込んでいたんです。
角川:実状は配慮なんてものはありません。逮捕後、証拠隠しと外国逃亡の恐れがあるからと家族との面会が制限されました。勾留中は、ビデオカメラで24時間監視され、折りたたんだ布団に寝転ぶことすらも許されません。心臓に持病がある僕は3度も倒れました。何より恐怖と怒りを覚えたのが、拘置所の医師の「生きている間は出られない」という言葉。
2020年に「兵器に転用可能な機械を中国に売った」として大川原化工機の相嶋静夫さん(元顧問)が逮捕されました。相嶋さんは拘置所の医師に悪性腫瘍と診断されたものの、外部の病院での治療がなかなか認められず、翌年亡くなってしまう。その後、違法捜査による冤罪だったと判明した。「生きている間は出られない」という言葉は、脅しではなかったのです。
里見:そんな扱いを受けたら、不安や恐怖から誰だって警察や検察の思惑通りの自白をしてしまう。しかも弁護士は取り調べに立ち会えない。そんな国は先進国では日本だけ。
たった1人で検察や警察と対峙しなければならない気持ちを想像すると、事実とは異なる供述調書に捺印する人の気持ちは分かります。
角川:勾留当初、なぜ僕はここにいるんだろうと頭が真っ白でした。検事の言う通りにして楽になりたい自分もいた。そんな時、支えになったのが、作家の佐藤優さんの『国家の罠』です。逮捕前、佐藤さんから連絡をいただき、「これは人質司法になりますよ」と事前に忠告を受けていたんです。勾留中に『国家の罠』を再読して、なぜ自分がこんな理不尽な状況に置かれているのかを学んだのと同時に、これまでたくさんの無実の人が人質司法の前に屈したのではないかと感じました。
『人質の法廷』では、僕自身がこれから経験しなきゃいけないことがたくさん書かれている。勾留中の教科書が『国家の罠』だとすれば、『人質の法廷』は勾留後の教科書です。
裁判官は検察の顔色を窺う
里見:冤罪が生まれる大きな理由の一つが人質司法です。先ほど話題に出た大川原化工機の冤罪事件もそうですし、2019年に業務上横領の疑いで逮捕された大阪の不動産会社プレサンスコーポレーションの山岸忍元社長も248日間の勾留後に釈放され、のちに無罪判決が出た。今年10月9日に画期的な判決が出た袴田巌さんの事件もそうです。
角川:僕はいま名前が挙がった方たちにシンクロニシティを感じているんですよ。みな同じ時代に、人質司法という問題と闘う同志だと。個々の事件を改めて見ていくと、すべての事件に共通点があるのが分かります。それが、検察の捜査能力の低さとガバナンスの低下です。組織として反省して過去を受け止めていないから、同じ過ちを繰り返すのではないか。
里見:私は人質司法によって冤罪が生まれる原因は2つあると見ています。
1つ目が、会長がご指摘された検察という組織の問題。2009年に厚労省の村木厚子さんが無実の文書偽造の罪で逮捕されました。その後、刑事司法を見直すために法務省が主導した話し合いに参加した村木さんも、検察官自らが変わろうとしていないと感じたそうです。
2つ目が裁判所や裁判官の問題です。被疑者が保釈請求をしても、裁判官が検察官の反対をあっさり受け入れて、保釈請求を却下してしまう。
角川:裁判官は検察官の顔色を窺って判断しますからね。
里見:大川原化工機事件もプレサンス事件も、同じ構造です。捜査機関は証拠となる自白を得るために、逮捕して身柄を拘束しました。裁判所や裁判官がお墨付きを与える令状を出した。裁判所が検察の暴走を抑える歯止めの役割を果たせていない。そして検察の暴走に拍車をかけるのが、メディアです。
角川:里見さんの『人質の法廷』では、検察と裁判所が冤罪を生み出す仕組みだけでなく、メディアがどう加担するのかも描いている。さらには検察、裁判所、メディアに対し、刑事弁護士がどう闘うのか、複雑な構図を的確に記しています。
里見:ありがとうございます。過去の冤罪事件でも、メディアは警察や検察の発表をもとに報じるだけで独自の検証をほとんどしませんでしたから。
角川:戦中の大本営発表と一緒ですよ。そこは、僕自身も被疑者になって痛感しました。逮捕された直後、「ワンマン経営者」「KADOKAWAはガバナンスが利いていない」と散々批判された。
興味深かったのは、僕の逮捕と時を同じくしてスタートした袴田さんの再審の報じられ方。メディアは僕を批判した同じ紙面で「我々が袴田さんを犯人扱いした結果、冤罪が生まれた」と反省している。皮肉なものです。
生きて拘置所を出た者の使命
里見:6月に会長は、人質司法を憲法違反だとして、損害賠償を求めて国を提訴しました。
角川:前例のない訴訟に踏み切ったきっかけは、友人たちの言葉だったんですよ。先程の佐藤さんには「生きて拘置所を出られたあなたには社会的な使命がある」と言われました。「人質司法は憲法違反です」と語った著名な高野隆弁護士や、「憲法と国連に訴えなければダメです」と話す弘中惇一郎弁護士にも勇気づけられました。人質司法によって、国内の最高法規であり、ほかのすべての法令に優先されるはずの憲法で定められている基本的人権が侵害されている。だから世界人権宣言を採択した国連に訴えるしかない、と。
里見:厚労省の村木さん、プレサンスの山岸さん、そして会長……。みな個人の問題ではなく、人質司法を、もっと言えば日本の刑事司法の改革を目指して活動している。会長の言葉を借りれば、その点にもシンクロニシティを感じました。
角川:仮に代用監獄と呼ばれる留置場や、僕が過ごした拘置所に1年間で10万人が勾留されるとします。すると10年で100万人。人質司法は一般の人にとっても他人事ではないんですよ。
里見:会長の体験を知れば、社会人、経済人としての権利をすべて奪う人質司法の恐ろしさが多くの人に伝わるはずです。
角川:それでも前向きに捉えたいのが、2019年から取り調べの録音・録画が義務づけられたことです。
里見:録音・録画は、村木さんの冤罪事件という犠牲を機に実施されるようになったことも忘れてはなりません。それまで検察官は否認供述については取り調べのメモすら取らなかった。検察側にとって不利な証拠になる可能性があったからです。そんな状況を打破した録音・録画は、刑事司法にとって確かに大きな進歩です。
角川:裁判員制度も刑事司法改革の前進です。里見さんの労作は裁判員制度の実像を初めて取り上げた小説ではありませんか。裁判員制度によって、ようやく裁判官が検察ではなく、市民に向き合うようになった。
里見:ただし、いまだに人質司法がはびこる構造は残っています。しかも保釈されたからといって人質司法が終わるわけではありませんからね。
角川:そうなんです。いまも2泊3日以上の旅行には裁判所の許可が必要で、パソコンやスマホを持ってもいけない。里見さんがおっしゃったように、司法に社会権を奪われて、僕はようやく保釈された。そんな理不尽をなくすためにも人質司法が憲法違反であると訴えていきたいと考えているのです。
司会・進行/山川徹
【プロフィール】
角川歴彦(かどかわ・つぐひこ)/1943年生まれ、東京都出身。早稲田大学政治経済学部卒業後、1966年に角川書店に入社。角川グループホールディングス会長、KADOKAWA会長などを歴任。現在、角川文化振興財団名誉会長。最新著書『人間の証明 勾留226日と私の生存権について』(リトル・モア)が話題に。
里見蘭(さとみ・らん)/1969年生まれ、東京都出身。早稲田大学を卒業後、編集プロダクションに所属し、ライターなどを経て2004年に『獣のごとくひそやかに』(講談社)で小説家デビュー。『古書カフェすみれ屋とランチ部事件』(大和書房)など著書多数。最新著書は『人質の法廷』(小学館)。
山川徹(やまかわ・とおる)/1977年生まれ、山形県出身。ノンフィクションライター。2019年に『国境を越えたスクラム ラグビー日本代表になった外国人選手たち』(中央公論新社)で第30回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。最新著書は『鯨鯢の鰓にかく: 商業捕鯨 再起への航跡』(小学館)。
※週刊ポスト2024年11月8・15日号