女優・天海祐希のそばには、どんなときでも彼女の味方をしてくれる家族の存在があった。父、母、兄、弟、天海の5人家族。なかでも彼女が慕っていたのが、下町育ち特有の不器用なやさしさと人情を持ち合わせていた兄だった──。
霊柩車のクラクションが東京・上野の一角に大きく響き渡った。顔を覆って涙を流す者、叫ぶように感謝の言葉を述べる者、各々が故人への溢れる思いを表すなか、彼女は押し黙り、胸の前でかたく手を合わせた。最愛の兄との別れを前に、ピンと背筋を伸ばし、気丈な姿を見せていた天海祐希(57才)。その姿は、かえって参列者の涙を誘ったという。
「天海さんの2才年上のお兄さんが、10月下旬に亡くなりました。下町生まれ、下町育ちの江戸っ子然とした彼は、きっぷがよく、天海さんにとって自慢のお兄さんでした。
彼は長い間、地元の神社の総代としてお祭りを仕切ってきましたから、葬儀には、生前彼がよく着ていた神社の法被を着た人が何人も集まって……まるでそこにお兄さんも交ざっているかのような錯覚を起こして、涙が溢れました。入れ替わり立ち替わりやってくる弔問客の数は、彼の人望の厚さを感じさせましたね」(天海家の知人)
その日、天海の元にかかってきた電話は、兄との永遠の別れを知らせるものだった。
「長らく闘病していたそうですが、最期は病院ではなく、自宅で亡くなったそうです。天海さんはすぐにでも駆けつけたかったそうですが、ちょうど舞台の稽古中でした。周囲に迷惑をかけるわけにはいかないと、その日は涙ひとつ流さずに、稽古に集中したそうです」(芸能関係者)
公開が延期されていた劇場版『緊急取調室』の再撮影が9月末からスタートし、いまは、12月から公演が始まる舞台『桜の園』の稽古が連日続くなど、多忙を極める天海だが、兄のことが彼女の頭から離れることはなかったという。
「ここ数年、天海さんはかなり頻繁にお兄さんの元に通っていたように思います。数年前から闘病していたので、覚悟はしていたのでしょう。とはいえ、まだ59才です。ご家族はかなりのショックを受けているはず。それに天海さんは小さい頃からお兄さんの影響を受けて育ったんです。まるで、ご自身の体の一部が失われたかのように感じているのではないでしょうか」(前出・天海家の知人)
建築業を営む父、美容院を切り盛りする母の間に生まれ、東京の下町でのびのびと育った天海。2才上の兄と7才下の弟とは大の仲よしだったという。
「天海さんのご実家は、街の中心部からほど近いビルの最上階にあり、このビル全体が天海さんご一家の所有物なんです。お兄さんは結婚後もこのビルの別の部屋に住んでいて、いわば2世帯同居のような形でした」(地元住民)
父の後を継ぎ、建築会社を経営してきた兄は、町内会の副会長を務めるなど、地元でもよく知られた存在だったという。
「お兄さんは天海さん同様に背が高くてスラっとした雰囲気のかたで、一級建築士の資格を持っていました。地域住民からも信頼が厚く、仕事は順調そのものだったと思いますが、約3年前、治療に専念するため、仕事の現場から離れる決断をしたそうです。お兄さんには子供が3人いましたから、いつも誰かが連れ添って通院していましたね。天海さんと一緒に歩く姿を見かけたこともあります」(前出・地元住民)
好きなアーティストとの仲を取りもって
“宝塚史上最高”ともいわれた男役トップスターから、1995年に女優に転身した天海は、芸能界の第一線を走り続けてきた。華々しい世界に身を置き、大物女優と呼ばれるようになっても、家族の存在は天海にとって大きな支えとなった。彼女が特に影響を受けたのが兄だったという。
「天海さんは小さい頃からお兄さんのマネをして野球をしたり、尺八をやっていたお父さんに連れられて、お兄さんと一緒に民謡を舞台で歌ったこともあった。お兄さんはいかにも下町育ちらしいチャキチャキした話し方をする人。天海さんもふとした瞬間にそういった話し方やしぐさをすることがあるのですが、“これは兄の影響なの”と笑っていました。
お兄さんとは、大人になってからも、よくカラオケに一緒に行っていましたし、過去にインタビューで《お兄様の妹に生まれて ほんっと よかった》と話していたこともありましたね」(前出・天海家の知人)
そんな兄は、家族にめったに頼み事をしなかったというが、唯一、天海を頼ったことがあったという。
「その昔に、どうしてもシャネルズ(現ラッツ&スター)のライブに行きたかったお兄さんが、天海さんに頭を下げてチケットをお願いしたことがあったそう。天海さんは“兄のためならば”と周囲に掛け合い、チケットを入手し、さらにお兄さんとメンバーを会わせるというサプライズまで用意したんです。それがきっかけでメンバーの佐藤善雄さんはお兄さんと仲よくなり、長く交流が続いた。佐藤さんは今回の葬儀にも顔を見せていましたよ」(テレビ局関係者)
近所でも評判の仲よし一家に暗い影を落としたのは、父の死だった。2007年、父が肺炎のため68才で亡くなったのだ。
「一家の大きな柱が失われて、家族全員が深い悲しみに襲われました。特にお母さんは非常に落ち込んでいて……天海さんはお母さんを少しでも元気づけられたらと、旅行に連れて行き、“いつも一緒にいられるように”とお父さんの遺骨からダイヤモンドを作って、お母さんにプレゼントしたそうです」(前出・テレビ局関係者)
兄の病気が判明したのは一家が悲しみから這い上がってきたタイミングだった。
「最愛の兄に残された時間を知り、当初、天海さんはうろたえるばかりだったといいますが、“私がしっかりして、家族を支えなければ”という思いが、天海さんを奮い立たせていたのでしょう。お兄さんの奥様とも協力して家族が暗くならないように努めてきたそうです。天海さんは葬儀で涙を見せていませんでした。それは長い闘病を耐え抜いた兄の頑張りを称える気持ちが大きいからなのだと思います」(前出・天海家の知人)
葬儀では、かつて彼が、自分の葬儀で流してほしいと所望していた曲がかけられた。『TONIGHT』(ラッツ&スター)だった。兄もまた、最後まで天海への感謝を忘れなかったのだろう。
※女性セブン2024年11月14日号