1990年代はアイドルとして、女優として、歌やドラマ、グラビアで活躍してきた井上晴美さん(50)。30歳で国際結婚をしてからは、東京を離れ地方で3人の子育てをしてきた。2016年の熊本地震で自宅全壊の被害にあった際、被害の状況をブログで発信したところ、心ない声が届くこともあった。そのときの印象が強く残るファンもいるだろう。当時のことや田舎暮らし、子育ての話を聞いた。【全3回の第2回。第1回から読む】
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「熊本地震でバッシングを受けたときのつらさは、今も乗り越えてはいません。100の応援メッセージをもらっても、1つのバッシングのコメントがつくと、100の応援メッセージが吹っ飛ぶほどの威力があるんですよ」
当時、熊本県阿蘇の古民家に家族5人で暮らしていた。震災発生時、早寝早起きの子どもたちはすでに寝ていた。井上さんは子どもたちを起こし、最低限のものをもって一緒に逃げようとしたが、道路が寸断され動けず、真っ暗ななか庭にテントを張り、テントと車中で休んで夜が明けるのを待つような切迫した状況だった。
「携帯をなるべく使わないようにして、SNSで“私は今、こういう状況だよ”ということを、書き込むときだけ電源を入れていたので、周りの状況やみなさんからのメッセージにしばらく気がつかなかったんです。あるとき、気がついてみたら……」
心ないコメントに傷つき、「なぜ、こんなことを書き込んでくる人がいるんだろう」「何がしたいのだろう」──悲しみや悔しさが頭の中で渦巻いた。SNSはいったん休止した。
移動ができるようになると知人のいた大阪へ避難し、その後、子どもたちの希望もあり、また熊本へ戻って暮らすことを選んだ。熊本で生活を再建し落ち着いてくると、心理学の本を手に取った。
「子育てを始めてから、子育てのことなどに悩むと図書館で心理学の本を借りて読んでいたんです。このときも、バッシングする人の心理を知りたくて本を読みあさりました。私は自分の状況をただ知ってほしくて発信していたけど、客観的じゃなかった。それが気に入らない人がいたってことなんですよね」
本で学んだことで、当時の出来事を100%消化して乗り越えることはできなくても、癒やしや救いにはなったという。
「私としては芸能界はオススメしない」
読書は反抗期への対処法など、子育てについて考えるヒントもくれた。井上さんの子育ては独特だ。たとえば、家にはテレビがない。子どもたちが幼い頃は、ひとつの携帯電話を一緒に使い、友人とのラインのやりとりなどを家族全員で共有していた。子どもが「学校に行きたくない」と言ったときは、「わかった」と言って休ませ、登校を無理強いすることはなかった。
「みんなと同じことをしなくてはいけない、とは私は考えていないので。私自身、『なんで行かなくちゃいけないのかな』と疑問に思ってサボったりしたこともあるので、行きたくなくなる気持ちはわかるし(笑)。ただ、子どもが学校を休んで好き勝手にやらせるわけではなくて、『学校に行かなかったら、どうなるかわかる?』って子どもと一緒に考えます。そうすると、子どもたちは自主的に学校に行くようになりましたね」
科目の勉強についても同じ。古文や数学を「勉強したくない」「大人になっても役に立つと思えない」という子どもたちと、一緒に考え、話し合ってきた。
「正解はわからない。でも、子育てを完璧にしようとは思っていないんです。大人も完璧じゃないので、失敗してもいい。子どもたちが失敗するのは当たり前。だから、ビクビクしないでまずやってみる。それで間違えることもある。でも、間違えてみないと、間違えだったかどうかもわからないと思うんです。正解がひとつじゃない、というパターンもありますよね。間違えて、失敗しながら学べばいい。失敗しちゃいけない、と思ったら息苦しくなっちゃいます」
大切なのは、「自分はどうしたいか」をよく考え行動できること。子どもたちにはそんな大人になってほしい、と井上さんは考える。
「グローバルな時代に生きるには必要かな、と思っているので。たとえば、娘は今、芸能界に興味を持ち始めているんですけど、『本当にやりたいの?』とよく考えるように促しています。私としてはオススメしない(笑)。だって、プライバシーがないから。
私がテレビに出たりすると、子どもたちは学校で『おまえのママ、○○してたな』って言われちゃうんです。『そんなふうに、あなたもいつも誰かに見られるようになるんだよ。それでもいいのかな』って問いかけています」
井上さんなりの子育てを、友人は「講演などで話してみたら」と勧めてくれるという。
移住してポツンと一軒家に…「これも修行だ!」
井上さんが子どもたちの父親と出会ったのは、2004年、カナダのバンクーバーへ留学したときだった。なぜ留学したのだろうか。
「大人になったら学ぶことが大事だと思うようになって、それまでも何度か留学していたんです。時間ができたら、パッと行って数か月間、現地で暮らして語学学校に通って。カナダに行く前はイギリスに何度か行っていたんですけど、そのときはたまたまカナダに行ったんです」
国際結婚もチャレンジ精神旺盛な井上さんらしい選択だったのかもしれない。2007年に第1子の長男を出産後、親戚も知人もいない長野県に移住したのもチャレンジだった。
「長男出産後、夫が『自然の中で子育てしたい』と希望し、夫が地図を広げて『ここ!』とたまたま指をさした長野県に移住したんです。夫に『私の仕事はどうするの?』と聞くと『それは君の話でしょ』と言うので、長男に母乳をあげながら、長野から東京まで高速を車で飛ばし、片道3時間を往復しながら、昼ドラマに出演したりしていました。死ぬかと思うほど大変でしたね」
仕事がないときは別の意味で大変だった。親戚や知り合いがいない土地で幼い子どもと向き合っていると、気持ちが沈むこともあったという。
「リンゴ畑の中にポツンとあるような家に住んでいて、コンビニはない、病院も揃っていない土地で、ママ友もできなかった。でも、ないものねだりをしても仕方がないし、もともと私は他人と違うことをやりたくなるタイプ。『これも修業だ!』と頭を切り替えました。おかげで鍛えられましたね(笑)」
2011年、東日本大震災をきっかけに、頼れる親族がいる故郷・熊本へ引っ越した。皮肉にも、その熊本で被災してしまったが、他人とは違う経験を重ねてきたことは井上さんの財産になった。
「これから何が私の人生の軸になっていくのか……、まだ模索中ですが、私なりにいろんな引き出しを作ってきたつもりです」
まだまだ、“お披露目していないユニークな井上晴美”がありそうだ。
第3回では人気絶頂の25歳で井上さんがスキンヘッド写真集を出した理由、アイドル時代に番組で共演したSMAP、TOKIOとの関係などを明かしている。
(第3回に続く。第1回から読む)
◆取材・文/中野裕子(ジャーナリスト)