ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その12」をお届けする(第1435回)。
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まず、「大東亜新地図」を見ていただきたい。一目見てわかるように、ロシア領である北樺太とウラジオストクのある沿海州が日本の領域に組み込まれる予定になっている。ロシア革命勃発以後に「陸軍の法王」山県有朋が表具師に作らせた地図で、これを眺めながら「沿海州と北樺太を取れば、日本海は内海になる」「帝国日本の完成じゃ」とうそぶいていたと言えば、歴史学者の先生方はなんと言うだろうか。
「そんな史料は無い」だろう。そのとおり、これはコミック『乾と巽 ―ザバイカル戦記―』(安彦良和著講談社刊)の一シーン(第2巻・第8話所収)に登場するもので、つまり創作だ。そして創作と聞くと、歴史学者のほとんどは一顧だにしなくなる。まったくバカな話である。
なぜ「バカ」なのかは前回詳しく述べたところだが、「当時の日本人の心情」を考えれば、日本人の誰にとっても恐怖の対象であったロシア帝国に「内乱」が起こったことが、いかに喜ばしいことだったか。まず、それがある。
それでも「バイカル博士」戸水寛人の言うように、ロシア領のバイカル湖以東をすべて奪うことは、やはり日本の国力から見ても「夢物語」には違いない。そのためには赤軍と対立する白軍にまで戦いを挑まなければいけないからだ。しかし、その白軍に味方しロシア帝国の「再興」に協力する形で恩を売り、「新ロシア帝国」から代償として北樺太およびウラジオストクのある沿海州を獲得するという戦略なら、おおいに実現の可能性がある。
このことは「孫子の兵法」など知らなくても、ちょっと知恵のある人間ならば誰もが思いつくことだ。軍人ならなおさらである。そして、ロシアに負けるかもしれないという恐怖の下になんとか日本を勝たせた元老山県有朋にとっては、まさに「天佑」であり「千載一遇の好機」であったはずで、当然彼は少なくとも頭のなかではこの「絵図」を描いていたはずなのである。
では、なぜそれが残っていないのかと言えば、日露戦争や第一次世界大戦と違ってシベリア出兵、いや「第二次日露戦争」は大失敗に終わったからである。人間、大失敗に終わったことに関する「史料」は抹殺しようとする。大東亜戦争終了後も、一九四五年(昭和20)八月十五日以降、陸軍参謀本部の庭で大量の文書が燃やされたではないか。あのなかには、「アメリカ占領計画」や「アメリカ人をどのように日本軍に従わせるか」のような機密文書も当然あったはずだ。
なにしろ戦争しているのだ。あらゆる場合を想定して計画を練っていたはずである。しかし負けてしまったのだから、そんなものを残しておいてはアメリカ軍に罰せられるかもしれないし、後世の人間に嘲笑される。だから彼らは廃棄した。人間は成功すると思うからこそ行動に踏み切る。そして成功すればいいが、失敗した場合は後世の人間からバカにされないために証拠隠滅を図る。
こういうことが起こるのは人間社会の常だ。これを常識という。この一九一七年(大正6)当時のロシア情勢から見れば、ロシア「内乱」に日本は介入するべきだと誰もが思ったはずなのである。しかし、その介入は大失敗に終わった。だからこそ、当然それに関する史料はできる限り抹殺されたはずである。史料が無いからと言って、そんな事実は無いなどと言っていたら、歴史の真相は絶対につかめないだろう。
しかし「千載一遇の好機」ではあるのだが、日本はただちにロシア領に出兵することにはためらいがあった。先の「対華二十一箇条要求」によって、欧米列強とくにアメリカやイギリスには「日本は中国に領土的野心があるのではないか」と疑われていた。正確に言えば、欧米列強から見て「日本の中国への領土的野心」に見えるものは、実際は「十万の英霊という犠牲を無駄にしてはならない」という「日本教」の信仰に基づく信念であって、欧米列強の「植民地を獲得して徹底的に搾取する」という姿勢とはまるで別のものだ。だが彼らにはそういう宗教が無いから、日本の姿勢が理解できない。
たとえば、イギリスは植民地支配したインドにおいてインド人から徹底的に絞り取る一方、インド人をイギリス軍に採用しても絶対幹部にはしなかった。反乱される可能性があるからだ。しかし日本は韓国を併合した後、彼の地に最大限の投資を行ない鉄道や上下水道などインフラを整備して「朝鮮系日本人」が内地と同じような暮らしができるように最大限の努力をした。
イギリスもインドに鉄道は敷設したが、それは搾取を効率的にするためでインド人の幸福を考えたものでは無かった。だからインド人の教育水準を上げるための学校建設も、一文の得にもならないインド人居住区の上下水道などのインフラ整備もまったくしなかった。一方、日本軍は優秀な人間なら朝鮮系でも採用し、幹部に抜擢した。
併合に強権的な要素がまったく無かったとは言わないが、本来は会社合併と同じようなもので、だからこそ人事にも根本的な不公平は無かったのだ。しかし再度繰り返すが、そういう信念は日本独自のもので、中国人を含めて外国人には理解できなかったし、また日本人もそうした自分たちの「宗教」を外国に理解させる努力をあまりしなかった。
だから欧米列強は、「日本の中国への領土的野心」を疑い続けた。思い出してほしい。日本が喜んで第一次世界大戦に参戦すると申し入れたとき、イギリスはむしろあわてて限定的な参戦にするように釘を刺した。またアメリカは、日本が有利な形で日露戦争を終えられるように協力したにもかかわらず、桂―ハリマン協定で成立した満洲への進出を日本側に一方的に反古にされた。これが後にアメリカに「日本嫌い」の世論を生み、「日本移民の排斥運動」につながり「アメリカの中国支持」となって日本の「致命傷」となるのだが、それゆえにシベリア出兵には当初日本の軍部ですら慎重な姿勢を見せていた。
ルーズベルトの「棍棒外交」
ところが、驚くべきことに革命翌年の一九一八年一月、十月革命(10月はロシア暦で、英米では11月)のわずか二か月後、イギリスやフランスから「日本よ、ロシア領内に出兵してくれ」という要請が来た。そればかりでは無い。アメリカもそれに同意し、最終的には日米共同でシベリアに出兵することになったのだ。日本は欣喜雀躍したのは言うまでも無い。では、なぜそういう事態になったのか?
まず第一に、英仏ともに世界最初の共産主義革命であるロシア革命がヨーロッパ全域に波及することを恐れていた。ブルジョアジーによる帝国主義の国家である英仏は、「それを悪」とするプロレタリアート(ロシアではボリシェビキ)の標的になりやすい。前にも述べたように、この時代には共産主義は帝国主義という「悪」を根本から変革する理想の思想であり、正義感に富む多くの若者の熱い支持があった。だからこそ英仏は、ロシア国内の保守派つまり白軍と組んで革命を潰してしまおうと考えたのだ。
とくに、さまざまな閣僚を歴任し、後にイギリスの首相となるウィンストン・チャーチルは、最後の最後まで白軍を援助した。フランスと違ってイギリスはあくまで王国であり、皇帝一家を処刑したソビエト共産党とはその意味でも相容れないと考えたのかもしれない。もっとも、皮肉なことに第二次世界大戦時においては、チャーチルは最大の強敵大日本帝国を倒すためにソビエト共産党のヨシフ・スターリンと手を組むことになる。それはまだだいぶ先の話だが。
第二に、英仏はこのときもまだ続いていた第一次世界大戦において、ドイツに決定的な打撃を与えようと考えた。ロシア帝国は最終的に十月革命でソビエト連邦になったのだが、その時点で第一次世界大戦からは手を引いた。しかし、英仏にとってはソビエト連邦が「温存」されるよりは、白軍の手で新しいロシアが建国されたほうが都合がいい。革命を潰したうえに、新ロシアを味方にすることができるからだ。
ただ、白軍の勢力の強いバイカル湖以東の地に兵を送るのに一番都合がよいのは、一に日本、二にアメリカであった。日本は日本海をはさんでロシアと対峙しているし、アメリカは大西洋と太平洋の双方に面し両洋に軍を展開できる国である。西海岸から太平洋を渡ればすぐにアジア、という利点がある。それゆえ、英仏から見れば日米に出兵を要請したほうが効率的である。
アメリカにはアメリカの事情があった。アメリカはウッドロウ・ウィルソン大統領の下、当初はモンロー主義の立場を取り中立国であった。モンロー主義とはアメリカ第五代大統領ジェームズ・モンローが内外に宣言した外交原則であり、「アメリカ合衆国はヨーロッパ諸国に干渉しない代わりに、アメリカ大陸に対するヨーロッパ諸国の干渉も拒否する」というものだった。一八二三年のことだ。
後のアメリカのことを考えればずいぶん消極的に見えるかもしれないが、この時点では独立戦争(1775年)こそ終わっていた(モンローも独立戦争に従軍している)ものの、アメリカの領土はボストンやニューヨークを中心とした東海岸だけである。最終的にアメリカ大陸からスペインの勢力を排除した米西戦争(1898年)どころか、西海岸のロサンゼルスやサンフランシスコをメキシコから奪った米墨戦争(1846年)もまだ先の話で、むしろ「小国アメリカ」としては「ヨーロッパで列強のやることには口を出さないから、こちらも自由にさせてくれ」といった感じの「宣言」だったろう。
しかし、米墨、米西の二大戦争の勝者となった後のアメリカは違う。とくに西海岸に進出したことは大きく、アメリカがペリー艦隊を派遣して日本に開国を迫ったのも、西海岸からなら太平洋を渡ってすぐアジアに進出できるからだ。当然そのような大国になれば外交方針も違ってくる。
日露戦争で日本に味方してくれたセオドア・ルーズベルト大統領は、モンロー主義を堅持すると言いつつも拡大解釈を始めた。この拡大解釈のことを「ルーズベルトの系論」と呼ぶが、具体的にはヨーロッパ諸国が中南米に干渉するなら武力に訴えても干渉を排除するというもので、そのうちに「向こうに非があるなら、世界中どこであれアメリカが武力介入してもよい」ということになった。
アメリカは第二次大戦後しばらくのあいだ「世界の警察」と呼ばれていたが、その発祥がルーズベルトにあることはおわかりだろう。この姿勢を人々は「棍棒外交」と呼んだ。彼自身の言葉「Speak softly and carry a big stick; you will go far.」(棍棒を持ちソフトに話す、そうすれば遠くに行ける=何事もうまく行く)に基づくものだ。
そのアメリカが第一次大戦参戦に踏み切ったのは、大西洋においてドイツが英仏への軍需物資の輸送を妨害するためUボート(ドイツ海軍潜水艦の通称)で民間商船をも攻撃する無制限潜水艦作戦に踏み切ったためだ。ドイツは劣勢を挽回するために、英仏が大西洋ルートで軍需物資を補給するのを妨害しようとした。
アメリカは中立国だと言っても、ドイツから見れば敵に大量に物資を補給している「敵国」である。また、当時は衛星による監視で船の種類や国籍を認識できるシステムなど無い。潜水艦の潜望鏡から覗くだけである。それでも国籍はともかく軍艦か民間商船かの区別はつくのだが、それでもドイツ海軍は無差別攻撃を実行した。「敵国への物資の補給は敵対行為である」ということだ。
しかし、やられたほうは堪らない。戦争とはなんのかかわりも無い民間船がやられてしまうからだ。とくに、一九一五年五月にイギリス客船「ルシタニア号」がUボートに撃沈されて千百九十八人が死亡し、そのうちの百二十八人がアメリカ人だったことにアメリカの世論は激高した。
さらに一九一七年一月、ドイツ帝国の外務大臣アルトゥール・ツィンメルマンがメキシコに、「もしアメリカが参戦するなら、同盟を組んでアメリカと戦おう。そうすればカリフォルニアが戻って来るぞ」と申し入れたと伝えられた。ツィンメルマン電報事件という。これは本来外交機密であるはずの電報の内容がイギリス情報部によって暴露されたもので、なにやら陰謀の臭いもするのだが、これでアメリカの世論も参戦を認めた。つまりこの時点で英仏は、日本だけで無くアメリカも同盟軍として使える体制が整っていた、ということだ。
(第1436回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2024年11月22日号