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【逆説の日本史】ロシアの第一次大戦からの離脱で英仏が目をつけた「チェコ軍団」

NEWSポストセブン 2024年11月21日 16時15分

 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その13」をお届けする(第1436回)。

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 一九一七年(大正6)は大波乱の年で、二月にドイツが大西洋から地中海で無制限潜水艦作戦に踏み切った。前回述べたように、英仏への補給を断つために民間商船でも撃沈する、というものである。

 これで自国民に犠牲者が出たことに激怒したアメリカは、第一次世界大戦参戦に踏み切った。日本は同盟国のイギリスから海軍の派遣を要請された。潜水艦の天敵である駆逐艦でUボートをやっつけてくれということで、日本はこの見返りに青島の戦いで獲得したドイツ利権の継承をイギリスに認めさせた。

 この段階で日本は第一次大戦の「同盟国」である英・仏・露に青島の権益継承を認めさせたわけだが、参戦してきたことによって新しく「同盟国」となったアメリカとの調整が必要になり、外相経験者の石井菊次郎を特命全権大使としてアメリカに派遣した。アメリカ側からも要請があったようだ。この背景には、「対華二十一箇条要求」をアメリカが日本の中国への侵略を意図するものだと感じていたことがある。

 これもすでに述べたように、日本は「英霊の安らかな眠り」を求めていただけなのだが、そんなことはアメリカにはわからない。また、桂―ハリマン協定を一方的に放棄され、「門戸開放」を反故にされた「恨み」もある。こう言えばおわかりのように、石井とアメリカの国務長官ロバート・ランシングとの交渉では、日本は中国における特殊権益をアメリカが認めるよう迫ったのに対し、アメリカは従来の主張である中国の領土保全と門戸開放つまり中国進出の機会均等を強く求めた。

 交渉は双方の主張が平行線をたどり難航したが、結局は「アメリカが日本の権益を認め、日本はアメリカの機会均等原則を尊重する」などという形の玉虫色の「石井―ランシング協定」となった。どこが「玉虫色」なのかと言えば、日本は対華二十一箇条で中国から獲得した権益をすべてアメリカが認めたと考えたが、アメリカ側は日本の経済権益は認めたが政治権益は認めない、と考えたからだ。

 内政干渉が侵略の第一歩であることは人類の常識である。だからアメリカは日本の獲得した権益は経済的利益にとどまり政治的権利は含まれないと解釈したのだが、日本はそう考えずその点があいまいになっていた。それでも協定が成立したのは、第一次世界大戦がまだ終わっていなかったからだろう。「いまは同盟国」なのである。

 そうこうするうちにロシアでは革命が起こって帝国が崩壊し、十月革命でソビエト連邦が誕生した。正確に言うと、この時点の正式な国号は「ロシア社会主義連邦ソビエト共和国」で、周辺の国家を統合して「ソビエト社会主義共和国連邦」となったのは内戦終了後の一九二二年(大正11)である。一九一七年時点で、ソビエト共産党は白軍を殲滅するためには世界大戦などしている場合では無いと、ドイツとの単独講和に踏み切った。これは英仏から見ると、同盟軍ロシアの戦線離脱によって西部戦線が手薄になることになる。そこでドイツ軍の反転攻勢を怖れた英仏が目を付けたのが、チェコ軍団であった。

 読者は、チェコという国をどのように認識しているだろうか。

 団塊の世代なら、チェコというと「チェコスロバキア」という国名が反射的に浮かび上がってくるのではないか。ソビエト連邦の「属国」としての東欧六か国の一つであり、そこから「独立」した後も「チェコスロバキア連邦共和国」であった。

 その国がチェコとスロバキアの二つの共和国に分かれて現在に至るわけだが、そもそもチェコ人とスロバキア人は同じスラブ系ではあるが別の民族だった、しかし巨大な帝国からの支配を嫌う勇猛果敢な独立心の高い人々であり、汎スラブ主義(スラブ人同士が団結して国家を作ろう)の影響を受け、チェコとスロバキアが力を合わせて帝国支配に抵抗しよう、という機運が高まっていた。

 ただ「本家」の汎スラブ主義は、ロシアを盟主としてスラブ人が団結するというもの(お気づきのように、これはソビエト連邦の国家運営とも、現在ロシア共和国の独裁者プーチン大統領の政治思想にも影響している)だったが、チェコ人もスロバキア人もそんな形はまっぴらごめんであった。本来ならば互いに組むこと無くそれぞれの国家として独立したかったのであり、その夢は現在実現されたが当時は強大な帝国の力に対抗するにはチェコとスロバキアが同盟するしかない、と考えたわけだ。

 日本の歴史にたとえれば、ちょうど今川家に支配されていたころの松平家(のちの徳川家)の立場によく似ている。松平家は「今川連邦」の支配下にあったが、なんとか独立したいと考えていた。彼らは勇猛なので「今川連邦」の尖兵として酷使されていた。恨みは深い。ところが、織田信長が今川義元を倒してくれたのでさっそく独立した……。同じことである。

 チェコ軍団(約4万人。正確にはスロバキア人も含めた軍団)は、オーストリア・ハンガリー帝国の尖兵として酷使されていた。ところが、その帝国が英・仏・露の連合軍に降伏し、形の上ではチェコ軍団は隣接するロシア帝国の捕虜となった。だが、武装解除されたわけでは無い。革命寸前のロシア帝国にそんな能力は無かった。そうこうするうちにソビエト連邦が誕生し、ドイツと単独講和して第一次世界大戦から手を引いた。

 これはチェコ軍団からすれば、捕虜の身から解放されたということである。チェコ軍団は待ってましたとばかりに、オーストリア・ハンガリー帝国から独立して自分たちの国を建国したいと表明した。これに目をつけたのが英仏である。

 ロシア帝国がソビエト連邦になって「連合国」から離脱したことによる西部戦線の戦力低下を、早急に補う必要があった。そこで、このチェコ軍団を援助して西部戦線で戦わせればいい、ということになったのだ。だが、問題はどうやってチェコ軍団を「ロシア」から西部戦線に移動させるか、である。

「ロシア」の西隣りがドイツである。話は簡単のようだが、いかに勇猛果敢なチェコ軍団とは言え、補給も援軍も無しに単独でドイツを攻撃することは不可能だ。かと言って一番近いフランス軍と合流するためにはドイツの領域内を敵中突破しなければならない。関ヶ原のときの薩摩勢の「退き口」でもあるまいし、そんな無謀なことをすれば殲滅される恐れがある。

だが地球は丸いのだから、西では無く東に向かっても遠回りではあるが、英仏軍と合流できる。具体的にはシベリア鉄道を使ってバイカル湖以東に移動し、ウラジオストクから船で英仏に向かう手だ。

英仏が得た絶好の「大義名分」

 ただ、ここでもう一つ問題が生じた。ロシア帝国はソビエト連邦になったことで一応は敵では無くなったはずなのだが、ソビエトはチェコ軍団に強い警戒心を抱き、武装解除して民間人になるならウラジオストクへの移動を認めよう、と通達した。

 現代の日本は平和ボケの社会なので、軍隊の武装解除ということがどんなに深刻で当事者にとっては許し難い事態かということかがよくわからない。敵は武装しているのだから、武装解除ということは丸腰になっていつ殺されるかもしれない状態になれ、ということである。

 これも日本史の例を見れば、なぜ織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしたかと言えば、同じ仏教徒同士で殺し合いをやめない仏教勢力に対し武装解除を求めたからである。僧兵を擁し大名に匹敵する軍事力を持っていた延暦寺は、これを断固拒否した。だから信長は、一罰百戒の意図のもとに比叡山に鉄槌を下した。この一挙は絶大な効果があった。だからこそ天下人の後継者豊臣秀吉は刀狩り(武士以外の武装解除)に成功し、徳川家康の時代には寺院から僧兵が一掃された。

 源義経の「一の子分」武蔵坊弁慶は鞍馬寺の僧兵であったし、その時代から戦国時代にかけて東大寺や興福寺の僧兵が強い力を持っていたことをお忘れ無く。どんなものでもそうだが、突然無くなるわけでは無い。僧兵は、信長・秀吉・家康の努力によって完全に廃止されたのである。

 武装解除というのはそれほど困難なことなのだ。なにしろ丸腰になるのだから、自分の墓穴を掘らされた上に銃殺されたり、連行されて過酷な強制労働に従事させられることもある。これはたとえ話では無い。後にソビエト連邦が、ポーランド軍と日本軍の捕虜に対して実行した残虐行為(カチンの森の大虐殺とシベリア抑留)である。

 逆に、ソビエト連邦に限らずどんな民主主義国家であっても同じことだが、国内に国家の統制に服さない強力な武装集団があるということは問題だ。いつ牙をむくか不安でもある。国家としては武装解除を求めるのは当然である。一方、チェコ軍団にしてみれば、武装解除など絶対に応じられない。

 だが生きている人間の集団である以上、衣食住は確保しなければならない。ソビエト連邦は武装解除に応じない限り、彼らに衣食住を提供するつもりは無い。となると、どういうことになるかおわかりだろう。チェコ軍団が食料を求めればそれは略奪ということになり、拠点を定めようとすれば占領ということになる。当然、ソビエト連邦軍の中核であるボリシェビキはそれを許さない。双方は武力衝突した。

 これは英仏にとっては有利な事態である。前回までの記述を思い出していただきたい。そもそも英仏は、ブルジョアジーを敵視するソビエト連邦をこれ以上発展させたらまずいと考えていた。そのためには、プロレタリア革命に反対する保守派つまり白軍を支援するのが最良の策である。

 しかし、いくら共産党が気に食わないからといって「彼らを潰すために派兵する」ことはできない。独立国で国民の支持を固めた政権を、戦争をしているわけでも無いのに攻めるわけにはいかない。そんなことをすれば「無名の師」(大義名分なき戦争)として国際世論の批判を浴び、歴史上にも悪名を残す。

 逆に言えば大義名分さえあれば出兵できるわけで、英仏は「ソビエトに弾圧されているチェコ軍団を救出する」という絶好の大義名分を得た。しかも、これについては新たに「連合国」に加わったアメリカも、もろ手を挙げて賛成した。

 十月革命を成し遂げた時点で、指導者のウラジーミル・レーニンは第一次世界大戦の収束に向けて「無賠償」「無併合」「民族自決」に基づく即時講和を世界に提案していた。これを「平和に関する布告」という。これに対してもっとも敏感に反応したのが、アメリカの当時の大統領(第28代)のウッドロー・ウィルソンだった。

 彼は理想主義者で共産主義者では無かったが、世界に新しい秩序を設けるべきだと考えていた。後に国際連盟の設立を提唱したのも、このとき帝国主義と決別したレーニンの布告に一部「賛同」したのもそのためだ。アメリカも資本主義の国家である以上、帝国主義の常套手段である「賠償請求」や「併合」を否定するのは難しいが、民族自決なら大手を振って賛成できる。じつは、これ以前に「民族自決」という言葉は無かった。辞典で「民族自決主義」を引くと、次のように説明されている。

〈各民族はその政治的運命をみずから決定する権利をもち、他民族による干渉を認めないとする主義。植民地などの民族独立運動の指導的理念。第一次世界大戦末期、アメリカの大統領ウィルソンが主張し、ベルサイユ会議での原則となった。〉
(『日本国語大辞典』小学館刊)

 この「民族自決主義」は、ベルサイユ会議つまり第一次世界大戦終了後の講和会議で尊重されたものの、すべての民族に適用されたわけでは無かった。いや、「チベット自治区」「新疆ウイグル自治区」などの現状を見れば、現在も達成されているとは言い難い。しかし、この時点で人類はあきらかに一歩前に進んだ。お気づきかもしれないが、そもそも帝国とは一つの理念の下に異なる民族を統合したものだから、民族自決主義とは帝国の否定につながるのである。

 自縄自縛という言葉があるが、この時期ウィルソンがはまったのはそれだった。民族自決主義をアメリカが国是とする限り、民族国家を作りたいと宣言したチェコ軍団はなにがなんでも助けなければならないことになるからだ。英仏にとってはまさに「渡りに船」で、両国はアメリカにチェコ軍団救出のためという口実で、実際は白軍支援目的のシベリアへの出兵を要請した。しかし、味方のなかでもっともシベリアに近いのは日本だ。つまり、日本の大陸への出兵を認めたくなかったアメリカも、この際認めざるを得ないということになった。

 日本にしてみれば、これほど望ましい状況は無い。

(第1437回に続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2024年11月29日号

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