モテる男と、モテない男──。昭和、平成、令和と時代が変わっても尽きることのない話題だが、それは約400年前も変わらなかったようだ。江戸時代の「遊廓」をめぐる史料には、「モテる客」「モテない客」の特徴が記述されていた。気鋭の研究者とともに歴史を紐解く。
2025年のNHK大河ドラマ『べらぼう』で、横浜流星(28)が演じる主人公・蔦屋重三郎は東京の色街・吉原に生まれ、客を遊女のもとに案内する引手茶屋の養子として育った。のちに吉原の様子を描いた洒落本や浮世絵、幕府公認の遊廓案内図『吉原細見』を手がけて、“江戸の出版王”へと成り上がった人物だ。
「蔦屋が出版した『吉原細見』は有名な史料ですが、その100年ほど前に刊行された遊女の“レビュー”といえる『遊女評判記』や、その一種である『色道大鏡』といった史料には、遊廓に生きた人々のリアルな人間模様が見えてくる記述が残されています」
そう語るのは、成城大学非常勤講師で『吉原遊廓 遊女と客の人間模様』(新潮新書)の著者・高木まどか氏だ。遊廓といえば豪華な着物に煌びやかな簪──といった華やかなイメージも根強いが、従事する女性が身内の借金のカタに身売りさせられたなど、「人身売買の場」でもあった。高木氏は、そうした両義性を前提としたうえで、「遊女と客の人間模様」という独自のテーマに目を向ける。
「一般的な認識は『美しい』か『残酷』かに二極化されがちですが、そのどちらでもない日常をあわせて見ることで、遊廓の実像を掘り下げたいと考えています。遊廓という街を現実に生きていた遊女や客の男性たちが描く人間模様をつぶさに見ると、現代の人間関係に通じる面が見えてくることもあります」(以下「 」内は高木氏)
高木氏が挙げた『色道大鏡』は1678年に刊行され、遊廓の人間関係を描いた一級の史料とされている。
「京都の上層町人の御曹司で、教養を持ち合わせた藤本箕山が放蕩三昧ののち、各地の遊廓や遊女の系譜、評判などを記した書物です。このなかで箕山は、男性客の特徴を『野暮』から『粋』までの28段階に分類して表現しました。わかりやすくいえば “モテる客”と“モテない客”を28段階で考察したということです」
「野暮」と「粋」について高木氏はこう解説する。
「『野暮』とは自惚れの自慢話を吹聴し、とかく自分をよく見せようと飾り繕っている男性客と表現できます。一方、『粋』については“周囲で痴話喧嘩があったら訳を聞いて遊女と客の両方の心を和らげて、可笑しいことなどを言って大笑いに持っていき、一層連れと遊女が親しみ深くなるようにさせる”ような人だと説明されています」
紳士的にその場を収めることができてこそ、「粋」に至ることができるのだ。
「箕山は遊廓で“モテる客”の特徴を、周りを見渡せる視野の広さとユーモアのセンスを持って争いを仲裁できることと書いているわけです。目の前の遊女だけでなく、周りの遊女に気配りできることも重要視しています。さらには“俺がやってやった”という図々しい気配りや余計なおせっかいは野暮で、あくまで爽やかに自然に振る舞うことが粋なのだと強調しました」
史料には28段階の分類がすべて詳細に残っているわけではないというが、「野暮」と「粋」の解説だけでも、江戸時代に限らず令和にも通じる教訓が見いだせそうだ。
「おやぢ」も嫌われた
井原西鶴が著わした『吉原つれづれ草』のなかで“嫌われる客”として例示されるのが、「おやぢ」である。
「当時の『おやぢ』は“老いた客”を意味しました。ただし江戸期は人生50年ともいわれ、40歳を過ぎたら『おやぢ』と呼ばれたようです」
そんな「おやぢ」の特徴について、『吉原つれづれ草』ではこう解説されている。
《老いた客は物事に気力が衰え、それでいてくどくどと益のないことを繰り返し言ったり、だらだらとしてのろく、淡泊だ》
高木氏が解説する。
「辛辣な言い方ですが、『おやぢ』や老いた客について似た書き方をする遊廓関連の史料は少なくありません。他にも『おやぢ』については“ベタベタしている”を意味する『したるい』との表現も多い。これは年配者の床事情について、苦言を呈していたのかもしれません。とくに『新造』と呼ばれる10代の見習い遊女からは、年の離れた『おやぢ』が嫌われたようです」
一方、モテる客の特徴として、次のような記述も残っているという。
「『色道大鏡』によれば、遊女の苦労を近くで見て理解してくれる同業者、器量がよく髪型や着物などが垢ぬけている役者、ケチなことを言わず太っ腹で、なんでも遊女の好きにさせる博打打ちの人気が高かったそうです。こうした“モテ要素”は、現代も変わらないのかもしれませんね」
興味深いのは、身分制が敷かれた当時の時代背景にあっても、「身分が高い=モテる」わけではなかったことだ。高木氏はこう指摘する。
「結局は先立つものが大事で、お金のない武士より羽振りのよい町人が贔屓にされた、という史料も残っています。とくに吉原の遊女たちは、江戸に参勤交代で来る武士をうまくあしらう気の強さもあわせ持っていたようです」
「全然床に入れない」
モテる客と、モテない客。そんな記述が残る一方、遊女に夢中になる男性客の心理も、史料には描写されているという。
「遊女は客と出会ったその日に情を結ぶのではありません。江戸時代中期以降になると3回目で床入りすることが多くなったとされますが、それ以前はまちまちで『5、6回通っても全然床に入れない』と客が嘆く記録もあります。馴染み客に詰め寄られても、『私はこんなに貴方を思っているのに信じてくれないのか』と巧みにいなす遊女もいたようです」
男性客をつなぎとめるために、遊女も様々な「誓約」を駆使したと高木氏は説明する。
「遊女は真に惚れたたったひとりを『間夫』と呼びました。間夫に対しては、自分の想いに嘘偽りがないことを神仏に誓う『起請文』を渡したり、『〇〇命』と客の名前の入った刺青を彫ったりしたようです。自らの血で書く『血文』を誓文とする人もいました。
他方、相手に内緒で何人もの客に起請文を渡したり、新しい間夫ができたら“昔の男”の刺青を焼き消し、新たな刺青を彫り直す強者もいたと記録に残ります。また、好意を自分から伝えるのではなく、あえて他の遊女に『あの子はあなたのことを想っている』と言わせて信憑性を持たせるテクニックも使われたようです」
本気の恋心を抱いた遊女が悲惨な末路をたどることもあった。
「客に惚れてしまった遊女が、人目を忍んで会っていることが知れると、周囲にたしなめられて破局させられたそうです。意中の男性と駆け落ちするも、お尋ね者になって真っ当な仕事に就けず、生活苦から男に逆恨みされた例もあります。遊女が想いを遂げるのは難しかったんです」
400年近い時を経ても男女の心の機微は変わらないのだろう。
※週刊ポスト2024年11月29日号