【書評】『中国ぎらいのための中国史』/安田峰俊・著/PHP新書/1100円
【評者】関川夏央(作家)
中国ぎらいが日本人の九割に近いという。弱小国に金を貸し、返せなければ土地や港の権利を半永久的に得る。外務スポークスマンは「戦狼」的言辞を平気で口にする。南シナ海のサンゴ礁を埋め立て、基地をつくる。中国ぎらい、中国共産党ぎらいが増えるのは当然だろう。
一方で、高層マンションを競って買い、値上がりしたら売ろうともう一軒買っておくといった沿海部「庶民」の拝金的態度には、少なくとも表向きは社会主義なのに、と不可解の念を抱かせる。
しかるに中国古代の物語は、ゲーム、マンガ、ドラマで大いに好まれているのは、古代専制君主も英雄も、現代の中国とは「別物」だと日本人が考えているからだ。それは違う、と著者はいう。中国では古代が現代をも貫き、たとえば秦の始皇帝は中国共産党総書記のロールモデルなのだ。
〈強大な権力が個々人を支配して「強国」を目指す法家思想を奉じた始皇帝の理想は(……)デジタルツールを駆使して全人民を管理しようとする現代の中国共産党のもとで、最も実現に近づいている〉
階層が固定して、ブルジョワジーが生産手段を独占し、プロレタリアートを搾取するという構図は、二十世紀的には革命前夜だ。しかしその気配はない。むしろ不満な若者たちを弾圧する手段として「用間」すなわちスパイを活用し、外国には「誤情報」を流して「認知戦」をしかける。それらは「孫子の兵法」の応用である。
戦前、中国の古代以来の歴史と現代の諸相を包括的に考える「シナ学」というジャンルがあった。だが戦後、侵略戦争に利用されたとしてか捨てられた。その反動から中国共産党に肩入れする研究者たちが出現、一時高揚したことがあった。
中国は敵ではないが、日本の「深刻な実存的課題」であるのはたしかだ。今こそ「新シナ学」が必要だ、とまだ四十代前半、過剰な反省とは無縁の「紀実作家」(ノンフィクション作家)はいうのである。
※週刊ポスト2024年12月6・13日号