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【逆説の日本史】「対ソ干渉戦争」失敗の原因となった「シンボルと新国家のビジョン」欠如

NEWSポストセブン 2024年12月2日 16時15分

 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その14」をお届けする(第1437回)。

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 日本にとってロシア帝国は「恐怖」であり、「懸案事項」でもあった。ところが、そのロシア帝国が革命で崩壊し赤軍と白軍の対決の場、すなわち内乱状態となった。「懸案事項」を解消する千載一遇の好機である。

 幸いにも、「同盟国」で第一次世界大戦をともに戦っているイギリスもフランスも、共産党によって成立した「ロシア社会主義連邦ソビエト共和国」には嫌悪感を抱いている。つまり、日本が白軍を応援することになんの異存も無い。日本としては旧ロシア帝国の東側、バイカル湖以東をすべて手に入れることは不可能にしても、そこには白軍主体の「新ロシア帝国」を成立させ、日本がそれを援助する見返りにシベリアや樺太北部そして沿海州を租借することは決して夢物語で無くなった。

 そうした日本の動向に「中国侵略を意図している」と深い疑心を抱いていたアメリカも、ドイツを倒すために英・仏・日の側に立って参戦することになり、日本の「シベリア出兵」を認めざるを得なくなった。日本から見れば、すべて思惑どおりになったわけだ。実際、シベリアに向けての日米共同の派兵は実現したのである。

 しかし、ここで読者は疑問に思うかもしれない。すべての客観情勢が日本にとってじつに都合よく展開したのに、なぜ「シベリア出兵」、言葉を変えて言えば日本の「新ロシア帝国建国」計画は失敗したのか、と。

 日本の計画が完全に挫折したのは一九一七年(大正6)の五年後、一九二二年(大正11)である。前回述べたように、この年赤軍つまり共産党(ボリシェビキ)は白軍を完全に打ち破り、その占領下にあった地域をすべて「解放」して「ロシア社会主義連邦ソビエト共和国」を「ソビエト社会主義共和国連邦」としたからだ。では、この五年間にいったいなにがあったのか?

 この間の事情はじつに複雑で、それを詳細に語ろうとすれば一冊の本になってしまう。いや一冊どころか、このシベリア出兵を題材とした作家高橋治の史伝的作品『派兵』(朝日新聞社刊)は第四部(単行本4冊)まで書かれたが、とうとう未完に終わってしまっている。「山県有朋の夢の絵図」で紹介したコミック『乾と巽―ザバイカル戦記―』(安彦良和著 講談社刊)は見事完結したものの、全十一巻である。

 この「戦い」をまともに描こうとすると、それだけの紙数を必要とするということだ。だが、この『逆説の日本史』は通史であるので、いかに重大事件とは言えそんなバランスを欠いた叙述はできない。そこで手っ取り早くこの五年間を理解してもらうために、二人の人物の経歴を紹介したい。

 一人目は、グレゴリー・ミハイロビッチ・セミョーノフ。ロシアのコサックで、アタマン(頭目)と呼ばれた男である。二人目は、アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ・コルチャーク。ロシア帝国海軍で提督まで昇りつめた男である。

 まず、セミョーノフ(1890~1946)だが、『世界大百科事典』(平凡社刊)では次のように説明されている。

〈ロシアの反革命派の軍人。ザバイカルのコサックの出身で、一等大尉。ロシア革命直後、〈満州特別部隊〉と称する白衛軍組織を編成してザバイカル州の革命勢力と対決した。その活動に着目した日本の参謀本部は武器と資金を提供し、軍事顧問団を派遣するなど、密接な関係をもった。1918年8月に連合国の本格的なシベリア軍事干渉が開始されると、日本軍の支援のもとにザバイカル州に反革命地方政権を樹立し、州民に対して苛酷な軍事独裁体制をしき、他方コルチャークの反革命軍事独裁政権とも対立した。1920年初頭にコルチャーク政権が崩壊したのちもチタ地方に居すわったが、同年秋に極東共和国人民革命軍に敗北し、そのころまでに日本の支持も失い、その政権は崩壊した。(以下略)〉

 次に、コルチャーク(1873~1920)も同事典に以下のように記述されている。

〈帝政ロシアの提督。日露戦争に従軍、戦後の海軍再建に奔走した。二月革命時に黒海艦隊司令官であったが、革命で高揚した水兵の要求で1917年6月に辞任に追い込まれた。臨時政府によりアメリカに派遣されたのち、帰途、横浜で十月革命の報に接した。対ドイツ講和を結んだレーニン政権に対抗すべく、連合国とくにイギリスの後援をえてシベリアに乗り込み、18年11月に〈全ロシア政府〉陸海軍相、次いで同月のオムスクにおけるクーデタにより〈最高執政官〉に就任して軍事独裁体制をウラル以東のほぼ全域に樹立した。しかし軍事的敗北にともない、翌年末までにこの体制は崩壊した。イルクーツクで革命委員会の裁判をうけ、銃殺された。〉

 ポイントはおわかりだろう。まずセミョーノフだが、彼は「日本軍の支援のもとにザバイカル州に反革命地方政権を樹立」した。つまり、「山県の夢」はこの時点で「正夢」となったのだ。そればかりでは無い。コルチャークに至っては「イギリスの後援をえてシベリアに乗り込み、(中略)軍事独裁体制をウラル以東のほぼ全域に樹立」したのだ。

 このとき、イギリスでロイド・ジョージ内閣の戦争大臣としてコルチャークを強力に支援したのが、後にイギリス首相となるウィンストン・チャーチルだった。チャーチルが白軍に対して行なった金銭的支援は、一説には一億ポンドを超える膨大なものだったという。なぜ、チャーチルはそこまで白軍に肩入れしたのか? あまり納得のいく説明を聞いたことは無いのだが、思うにチャーチルという政治家は危険に対する「動物的な嗅覚」を持つ政治家だったのではないだろうか。

 第一次世界大戦後のドイツにまさに「救世主」として出現したアドルフ・ヒトラーについても、多くの政治家がその正体を見誤るなかでチャーチルだけがその危険性を早くから説いていた。ナチズムと同じく共産主義にも、そうした危うさをチャーチルは感じ取っていたのではなかったか。そうした嗅覚を持っていたチャーチルが、強敵日本とヒトラーを倒すためとは言え、共産主義の悪を体現したヨシフ・スターリンと同盟を結ぶことになり、戦争に勝ったのはいいが大英帝国の解体者とならざるを得なかったのだから歴史というのは、きわめて皮肉な一面も持っている。

「頭目」と「提督」の対立

 とにかく、コルチャークはイギリスが主導した形の「新ロシア帝国建国」に一時成功し、セミョーノフも日本の夢であったシベリアの一部(ザバイカル州)確保に成功したのだから英仏日米の「共同事業シベリア出兵」(欧米ではこれを「対ソ干渉戦争」と呼ぶ)は、全体として途中までは大成功だったのである。それがなぜ最終的には大失敗に終わったのか。

 二人の経歴のなかにヒントがある。

 セミョーノフとコルチャークは最後まで反目し、共闘するどころか対立していたのだ。敵の赤軍すなわちソビエト共産党には、カリスマ的リーダーのウラジーミル・レーニンを筆頭に軍事部門にはきわめて優秀なレフ・トロツキーがいた。赤軍が白軍に勝利できたのはトロツキーの戦争指導の巧みさによる、というのは誰もが認めるところである。

 赤軍には、なによりも一枚岩の団結がある。革命とは人民が一致団結しなければできない。それだけでは無い、革命とはそもそも政治改革である。通常の政治改革とは違って、軍事力で一気呵成に反対派を殲滅し政権を奪取して実行するところが違うが、政治改革であること自体は間違いない。だから当然、革命を成功させた軍事部門だけで無く、行政部門も充実していた。税制改革や身分制度の撤廃など庶民が歓呼の声をもって迎えた政策が、共産党の手によって実行されていた。

 ところが白軍はどうか? 文字どおり白軍は「軍隊」であって、「政党」では無い。当然、占領した地域をどのように維持するか、人民を新国家の国民として、どのように処遇するかについて、なんのビジョンも無かった。そもそも、それを担当する部門すら無い。ゆえに「苛酷な軍事独裁体制」を敷くしかなかった。「黙って従え、逆らえば殺す」である。これでは人民の支持が得られるわけが無い。このうえにセミョーノフとコルチャーク、つまり「独裁者同士の対立」があったのだから、白軍が最終的な勝利を収める可能性は、じつはほとんど無かったのである。

 では、ここでなぜ両者は対立したのか、あらためて考えてみよう。もちろん日本とイギリスという「応援団の違い」はあるのだが、それが根本では無い。日英ともに支援目的は一致しているのだ。やはり問題は、コサックの頭目とロシア海軍提督という立場の違い、いや平民と貴族という身分の違いにあったのだろう。

 とくにコルチャークにとってセミョーノフは、山賊の親玉みたいなものだ。頭を下げるなど論外で、対等なパートナーにするのも抵抗がある。一方、独立心の強いコサック上がりのセミョーノフにとって、コルチャークは貴族出身を鼻にかける尊大な男だったろう。「部下にしてやる」と言われても頭など下げたくないし、自分は日本の支援の下で「ザバイカル王」としてじゅうぶんにやっていける、という自信もあったろう。

 ここであらためて認識するのは、ソビエト共産党がロシア皇帝ニコライ2世一家を全員惨殺「しておいた」ということだ。もし一人でも生き残っていて、それが新ロシア帝国建国のシンボルとして皇帝にでも祀り上げられていたらどうか? セミョーノフとコルチャークも「皇帝陛下の臣下」として共闘しなければならなくなる。現に内蒙古ではそういう存在が不在で団結できなかったが、外蒙古ではジェプツンダンバ・ホトクト8世(ボグド・ハーン)を担ぎ出したことによって、見事に政権が成立したではないか。

 この点、ニコライ2世一家を皆殺しにしたソビエト共産党つまりレーニンの「作戦勝ち」なのだが、対抗する手段はまったく無かったのか? 日本の天皇家と違って、ヨーロッパの皇室は各国相互に嫁や婿のやり取りをしている。現に、当時のドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世とニコライ2世はイトコ同士であった。ドイツは直前までロシアと殺し合っていた国だから、そこの皇族を引っ張ってくるのは無理だとしても、広範囲で探せばそうしたシンボルになるような皇族は一人もいなかっただろうか。

 ここであらためて思い出すのは、ナポレオン3世がメキシコ共和国を攻めてフランス寄りの帝国に改変しようと目論んだとき、メキシコ皇帝にかつぎ上げる予定だったハプスブルク家のマクシミリアン(オーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟)のことである。これこそ「ミクロに歴史を見る」歴史学者の先生方に追究してもらいたいところだ。適任者はいなかったのか、チャーチルはなぜそういう手段を取らなかったのか、ということを、だ。

 シベリア出兵つまり対ソ干渉戦争、それは具体的にはバイカル湖以東を白軍の国家「新ロシア帝国」にすることだが、それが大失敗に終わった原因は「シンボルの欠如」だけで無く、「新国家のビジョン」が無かったことも大きい。軍事力で支配しなんの希望も示さない政権は、住民の反抗を招くだけである。

 さて、ここで人間世界の常識に基づいて考えてみよう。決して難しいことでは無い。前にも述べたように、このシベリア出兵が「山県の夢」いや「日本民族の悲願」であったにもかかわらず、そして今回述べたように一度は成功したにもかかわらず日本人の印象が薄いのは、失敗した連中が必死にその痕跡を消そうとしたからである。当然、数多くの史料も抹殺されている。それが人間世界の常識だ。

 しかし一方で、人間は必ず大失敗の経験を分析してそこから学ぼうとする。言うまでも無いことだが、二度と同じ失敗を繰り返さないためである。歴史学者の先生方にもいったん高尚な学問から離れて(笑)考えていただきたいのだが、あなたの人生には大失敗は無かったのか? その大失敗をあなたは、ただ記憶のなかから消そうとしたか? そうではあるまい。その大失敗を恥じるがゆえに、二度と同じ過ちを繰り返すまいと教訓にしようとしたはずだ。それが人間世界の常識であり、それは現代の日本人であれ戦前の日本人であれ、同じことのはずである。

 では、このシベリア出兵という大失敗、せっかくの日本の敵国が内乱で分裂しそれに軍事介入することによって半分を日本の与国(味方)にできる絶好のチャンスが来たのに、むざむざそれを逃したという大失敗から学ぶべき教訓とはなにか?

 一つは、味方する勢力には「統合のシンボル」が絶対に必要だということだ。そしてもう一つは、単なる軍事介入では無く、その地の人民が支持する国家としてのビジョンを示し、行政機構を整えることだろう。

 私がなにを言いたいのか、慧眼の読者はおわかりのはずである。

(第1438回に続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2024年12月6・13日号

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