菅原文太さんが亡くなって10年が経った。いまも人々を魅了する菅原さんの魅力を、『トラック野郎 天下御免』などで共演した俳優の誠直也が語った。
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俺と菅原さんの出会いは、菅原さん主演の『現代やくざ 血桜三兄弟』(1971年)。その地方ロケでの酒宴が縁で、いろいろ何かあると声をかけて呼んでもらった。
無条件にカッコいい人ですよ。役柄と違って静かな人で、単行本を読みながら、好きな酒を脇に置いてね。
どんな時もバタつかない。それなりの修羅場になると、普段はイキがっていても、ばたつく人は多い。でも、菅原さんはなんともない。くそ我慢強いというか、意地っ張りというか、とことん腹が据わっている。
大阪で二人でいる時に、大勢の怖い人たちに暗闇で囲まれた時もね、俺は、もしなんかあったら──と思うんだけど、菅原さんは「この人はなんなの」っていうくらい落ち着いてるんだよ。「なんだ、この野郎!」って因縁つけてくる連中にも笑いながら動じない。そのうちに相手は退散する。そんな場面を何度も見たね。
そういう意地の通し方は何に対しても同じだった。菅原さんは新東宝から松竹に移り、それから東映に来た。東映の生え抜きじゃないから、苦労もしたんじゃないかな。
たとえばスターさんが来たら会社は車を用意するじゃない。でも用意されていなくても菅原さんは涼しい顔をして、地下鉄に乗って帰ったんだよ。そんな時にやっぱり腹が据わっているなと思った。タクシー代がもったいなくて電車に乗るんじゃなく、菅原さん独特の“我慢の美学”だったと思う。
それは自分に対して決めごとがあったからじゃないだろうか。そういうものすべてが菅原さんの演技や存在感になっていたと思うね。それでスターになったんだと僕は思っている。
東映の大先輩たちと一対一で芝居する場面も多かったけど、臆せず、渡り合っていた。普通の役者ならスターに圧倒されている気持ちが演技にあらわれてしまうものだけど、菅原さんにはそんなところがなかった。そういう点が深作欣二監督の眼にとまったんじゃないだろうか。監督は現場でアイデアがひらめくと、菅原さんに相談していた。二人はある種の戦友だったんだろう。
プライベートでは、役者だった息子の加織君をとても可愛がっていた。農業を始めたのは、加織君が亡くなってから。孫に美味しい野菜を食べさせたいと思ったのかな。暇があれば自分も畑に出て、土を耕していた。そんな人だったよ。
【プロフィール】
誠直也(まこと・なおや)/1948年生まれ、佐賀県出身。東映映画に多数出演し、テレビ『秘密戦隊ゴレンジャー』『特捜最前線』で注目を浴びる。
取材・文/春日太一(時代劇・映画史研究家)
※週刊ポスト2024年12月6・13日号