【書評】『神と人と言葉と 評伝・立花隆』/武田徹・著/中央公論新社/2750円
【評者】井上章一(国際日本文化研究センター所長)
プロレスがたのしいというような手合いは、「品性と知性と感性が同時に低レベル」である。かつて、立花隆は大宅壮一ノンフィクション賞の審査評で、そう断定した。1991年のことである。この年、同賞には井田真木子の『プロレス少女伝説』が選出された。だが、立花だけはそれに反対したのである。テーマがくだらないと、言いはなって。
私は若いころから、プロレスにしたしんできた。A・猪木に心酔していた時期もある。立花を信じれば、愚劣な人間である。まあ、私のことは棚上げしておこう。だが、立花の物言いには、やはりひっかかる。
彼にしたがえば、品性や知性、そして感性のおとる事象からは、目をそむけなければならなくなる。しかし、人間のいとなみには、まちがいなくそういう部分がある。そこを見つめるのもまた、りっぱなノンフィクションの仕事であろう。そう言いかえしたくなってくる。
プロレスぎらいという資質は、立花を語るさいにはずせない。決定的に重要な何かだと、私は思ってきた。ざんねんながら、今回の評伝はそこをさけている。
ただ、この本では、私がこれまで知らなかった立花の成育歴を、おしえてもらえた。両親は無教会派のプロテスタントであり、立花もその感化をうけている。反抗をしつづけたが、キリスト教に根のある価値観からは、解放されきらなかった。とりわけ、晩年にはそこへたちかえりだしている、と。
なるほど、そういう人だったのか。プロレスの下世話な部分にはなじめなかったんだろうなと、勝手に納得したしだいである。ただし、これは日本的なキリスト教受容を前提においた了解である。欧米ではありえない理解だと言ってよい。
たとえば、ドナルド・トランプはキリスト教福音派の輿望をになっている。そして、彼の弁舌はWWEというプロレス団体によっても、きたえられていた。そこへ分けいるノンフィクションもあっていいと、私は思うのだが。
※週刊ポスト2024年12月20日号