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【没後10年 菅原文太さん】女優・渚まゆみが振り返る「文太さんから裸で逃げるシーンが楽しかった」「母に“やくざと付き合ってる”と勘違いされました」

NEWSポストセブン 2024年12月11日 16時15分

 昭和の銀幕スター・菅原文太さんが亡くなって10年が経った。『現代やくざ 人斬り与太』『人斬り与太 狂犬三兄弟』などで共演した女優・渚まゆみが思い出を振り返る。

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『現代やくざ 人斬り与太』(1972年)のお話が来た時、私は石原プロにいたのですが、マネージャーからは「こういうやくざ映画はだめ!」と言われていました。でも、私としては、今までと違う役柄をやってみたいという気持ちがあったんです。刺激が欲しいなと思っていた時期だったので、頭にひらめいて深作欣二監督と渋谷東映の地下の喫茶店でお会いしました。「やります!」って言ったら、監督も「おっ、そうか!」って喜んでくださって。マネージャーは「本当か!」と驚いていました。

 現場での監督は「好きなようにやっていいよ」って感じなんです。私はいろんな酷い目に遭う役柄でしたが、もう自由に、自分の気持ちでバーっとやりきりました。本気で「やだ! 何するの!」って暴れ回ってね。監督のイメージと違っていると、「そこまでしなくていい」と指導してくれますから。

 次の『人斬り与太 狂犬三兄弟』(1972年)では全裸で逃げるシーンがあるんですよ。あれも「大丈夫か!」「大丈夫です!」とか言いながら、積極的に自分がやりました。すると監督も「よし。渚くん、こっち走って! あっちまで行って!」って。こちらも「ハイ!」って、ルンルンでやってましたね。楽しくて。でも母には「もうやめれ」と言われていました。

 文太さんには本当に優しくしていただきました。撮影が終わると、いつもウチに送ってくれるんですよ。雪駄履いて、やくざの格好のままで。それを母が見て「えー! うちの娘、やくざと付き合ってる」って大騒ぎだったの。「あんなやくざみたいな人なんかだめだ!」って。そんな母も最後は「あの人、いい人だ」と言うようになり「ちょっと上がって」って、一緒にテレビを見たりしました。

 赤坂のナイトクラブに連れて行ってもらったこともあります。途中で文太さんが「もう帰るか」って言うから、「私も帰りたい」「じゃ、帰ろう」ってそこを出て、「どうする?」って聞くものですから、「なんか食べたい」「よし。どこ行こうかな」なんて。品川でロケした後には、一緒に山手線に乗って帰ったんですよ。「まゆみ、大丈夫か。こっちこっち」なんて言って、つり革のところに案内されたりね。

 最後の共演は『山口組外伝 九州進攻作戦』(1974年)ですかね。この頃はそういう役ばかり来るようになっていて、ずっとお断わりしていたんですよね。でも、「もう一回だけ、なんとか出てくれないか」と東映に言われて。こちらも、「あ、文太さんに会えるな」と思って出ました。ただ、深作監督ではなかったので、前みたいにバーッというお芝居ではなくて、淡々と撮っていましたね。それでも「まゆみ、どうもありがとな」とか文太さんに言われると、「うん、大丈夫!」なんて言ってね。演技でかわいくしているわけじゃなくて、自然とそうやっちゃうんです。

 あの作品は京都での撮影でしたが、京都でもあちこちに連れて行ってくれて。撮影が終わってから飲みに行ったり、文太さんの周りの人たちも含めてみんなでワイワイやったりするのは楽しかったので、それはもう欠かさないで参加していました。勝新太郎さんが合流することもあって。もう本当に妹というか、子どものように文太さんと接していました。

【プロフィール】
渚まゆみ(なぎさ・まゆみ)/1944年生まれ、秋田県出身。1961年に大映から女優デビュー。『ザ・ガードマン』『流氷の女』などのテレビドラマ、青春映画や時代劇、ヤクザ映画などに多数出演。歌手としても活躍し、1973年に作曲家・浜口庫之介と結婚した。

■取材・文/春日太一(時代劇・映画史研究家)

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