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【仕事こそ人生でも最後は妻と…】小倉智昭さん、40年以上連れ添った夫婦の“心地よい距離感” 約1年前から別居も“夫婦のしあわせな日々”が再スタートしていた

NEWSポストセブン 2024年12月14日 7時15分

 フリーアナウンサーの小倉智昭さんが、12月9日、膀胱がんのため死去した。77歳だった。2016年に膀胱がんを患って以降がんと向き合った小倉智昭さんは、メディアで闘病生活を明かす際に「死の準備ができるから、がんでよかった」と口にしてきた。死に直面したとき、小倉さんは残された時間をどう過ごしたのだろうか──。

 小倉さんが当時まだ珍しかった「フリーアナウンサー」になったのは1976年、29才のときだった。『とくダネ!』(フジテレビ系)では1999年から2021年まで総合司会に座り、同一司会者による全国ネットの情報番組としての最多放送回数を記録し、長らく朝の顔を務めた。司会業から離れても、亡くなる直前までテレビ出演や講演活動などに勤しみ、仕事に邁進した。

 一方で、小倉さんは自身のがん闘病をあますことなく発信し続けた。

《健康で長生きするために、病気のことを学ぶことはすごく大切だと思います。(中略)僕の発信が、ほんの1ミリでもお役に立てばと思っています》(『Voice』2022年10月17日配信)

 そう語っていた通り、小倉さんは気力と体力のある限り講演活動を行い、がんの啓蒙を続けてきた。

 それを支えたのが、15才年下の妻・さゆりさんだった。ふたりが出会ったのは、いまから40年以上前。まださゆりさんは19才の大学生だった。小倉さんが出演するテレビ番組の撮影スタジオを、さゆりさんが見学に訪れたのがきっかけだったという。さゆりさんとの交際をスタートさせた小倉さんは、彼女の大学卒業を待って1985年に結婚した。

「ぼくがあなたをしあわせにするんじゃなくて、ぼくがしあわせになりたいからあなたと結婚がしたいんだ」

 離婚を経験していた小倉さんにとっては2度目の結婚。そんなこともあってか、プロポーズの言葉は、少しばかりぶっきらぼうだった。

「結婚後のふたりは、いつも一緒でした。スキーやゴルフ、射撃などを楽しんでいたようです。長期の休みがあると小倉さんの大好きなハワイに頻繁に旅行に出かけていた。プロポーズの言葉通り、小倉さんはしあわせそのものでした」(小倉さんの知人)

 晩年、以前は夫婦で嗜んだ趣味から距離を置かざるを得なくなっていた。多い時で年間200ラウンドしていたゴルフは、がんの肺への転移が判明する直前の2021年夏を最後にプレーすることはなくなった。そして、いつも一緒だった夫婦の関係にも大きな変化がやってきた。

「きっかけは小倉さんの収集癖でした。自宅には膨大な量の書籍やCD、絵画、ギターといったコレクションが山積みで、さゆりさんの居住スペースを圧迫していた。そこでさゆりさんは、“あなたの余生は、自分が好きで集めたものに囲まれて暮らすのが幸せでしょう”と、2023年の秋に実家に戻ってしまったんです。実家には実母が暮らしており、介護が必要になったことも理由のひとつでした。

 でも、決して完全別居というわけではなく、週に3日はさゆりさんが小倉さんの元を訪れて、一緒の時間を過ごしていました」(芸能関係者)

 一回り以上の年齢差があっても、40年以上連れ添った夫婦にとってはその距離感が心地よかったのだろう。

「離れて過ごす分、LINEや電話でやりとりする機会が増え、たまの外食では手をつないだりするようにもなったそうです。死去の1年前から、さゆりさんとのしあわせな日々が再スタートしたことに、小倉さんは満足しているようでした」(前出・小倉さんの知人)

 小倉さんの仕事ぶりにも拍車がかかった。死去の1か月前に応じたテレビの取材では、がん闘病はもちろん、年齢を重ねて物忘れがひどくなったことなどを開けっぴろげに語っていた。しかし皮肉にも、小倉さんの病状が悪化するにつれ、さゆりさんが自宅に通う機会は増えていったという。

 小倉さんが自宅に戻った後、事務所関係者や緩和ケアのスタッフが常に控えていた。だが、ふいに訪れた夫婦ふたりきりのタイミングで、さゆりさんに手を握られながら、小倉さんは77年の生涯に幕を閉じた。

『とくダネ!』に出演していた当時の小倉さんは、毎日、全国紙に目を通し、睡眠時間は3時間。仕事こそ人生というアナウンサーだった。小倉さんを看取ったさゆりさんは、周囲にこう漏らしたという。

「人づきあいが多い智ちゃんのまわりにはいつも誰かがいたけれど、最後の最後だけは、私だけの時間でした」

 それが、仕事に生きた小倉さんからのさゆりさんへの恩返しだったのだろう。

※女性セブン2025年1月1日号

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