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松田いりの氏、第61回文藝賞受賞作『ハイパーたいくつ』インタビュー「真実は完璧に削ぎ落とされた玉ではなく、もっと過剰でノイジーなものだと僕は思う」

NEWSポストセブン 2024年12月20日 7時15分

 端緒は古い友人で俳優の仲野太賀氏との会話だった。

「何がきっかけかは忘れましたけど、食事をしながら退屈について話す機会があって、太賀がふと言ったんです。『退屈って感覚、自分はないなあ』って。彼とは環境も性質も違うからこそ、『そうなんだ』と思って、自分の中で当たり前になっていた退屈という感覚を相対化できたのを覚えている。この冒頭の文章はほぼ、その時に喋ったことです」

 松田いりの氏(33)による第61回文藝賞受賞作『ハイパーたいくつ』の、以下がその書き出しだ。

〈退屈さだけをつまんで取り去ることはできない。退屈さは服にくっついた埃や毛じゃなくて、オズの国の魔法使いみたいなでっかい顔が噛み捨てたでっかいガムだ。服にべったりくっついた退屈さを引き剥がしたら、まとめて一緒にその下の服からもたくさんのものが剥がれ取れる。給料まるっとつぎ込んで仕立てた花柄ビーズ刺繍入り&日光を陽気に照り返す強靭なウールギャバジンの青い一張羅ジャケットだって、巨大なガムを引き剥がしたあとに残されるビーズは糸を引いて垂れ下がっておっさんの髭の剃り残しみたいだし〉〈一度退屈さと一緒に引き剥がしたものたちはそう簡単に取り戻せない〉……。

 それでもカードの払いや生活のために働く〈私〉の崩壊寸前な日々が本書では描かれ、鬱屈が狂気を生み、饒舌を生むこの過剰にして濃密な言語空間がもたらすのは、意外にも笑いだった。

 学生時代は「スラップスティックな芝居を書いていた」という著者の、本作は初小説。就職後は創作を離れ、10年の空白を経ての初応募による受賞だった。

「社会人を10年やってきて、この先もずっと今の毎日の繰り返しかと思っちゃったんですよね。ベタに言えば自分を変えたいというか。

 その時に演劇をやろうかとも一瞬思ったんですけど、それには人も集めなきゃなんないし、お金もかかる。しかも僕はだらしがなくて、昔からいろんな決意を立ち上げては腐らせることの連続だったので、次は決めたらすぐに取り掛かることができることをやろうと。それが小説だと思ったんです。今は思い描いていたことがすんなり行き過ぎていて、正直、怖いくらいです」

 さて冒頭で退屈を滔々と語った主人公は、どうやら演劇関係の会社の財務係で、取引先に〈本来の1000倍の金額〉を誤って支払い、そのまま夜逃げされるなど、ミスを連発中の問題社員らしい。そんな彼女は、自身も親の介護と更年期の只中にいる50代の〈チームリーダー〉から〈ペンギンのペンペン〉と呼ばれ、何かと気遣われていた。

 ある日、体調不良で4時間遅刻した主人公は、乗りこんだ電車で偶然にも、座席側に領空侵犯してきた登山客のリュック目がけて〈ザスっ、ザスっ、ザスっ〉と頭突きを食らわせるリーダーの姿を目撃する。このあたりから読者も少しずつだが、状況を理解していくことになる。

 一方、主人公はこの時点で近所のインターナショナルスクールの窓に石を投げて逃げた要注意人物で、〈豪邸庭先花摘み事故、児童公園ブランコ終日振回し事故、地蔵連続雪だるま化事故〉等々の余罪まであり、既に幾つかの通勤ルートは通行不能になっていた。

とっ散らかった内面の出し方

「特定の誰かだけが正しいというのは、危ういしおもしろくない。であればリーダー以前にまず主人公自身がヤバいし、財務係の人達もヤバい、登場人物が全員等しくヤバいという点はかなり意識して書きました。

 書き方自体は結構見切り発車で、まずは退屈のくだりを書き、次は主人公が電車に乗るまでを書こうとか、1つ1つのシーンを順番に書いていくうちに、リーダーの頭突きシーンと、彼女の首を登山客のリュックから飛び出たペグが貫く後半の場面がセットで浮かんだ。

 その時ですね。これは後半、結構遠くまで発想を飛ばせそうだなと思いました。だったら後半に至るまでに、主人公がリーダーを恐れるようになった経緯をわかりやすく丁寧に書こうと。周りからは『ブッ飛んでる』といったような感想をよくいただくんですが、むしろ自分の中ではかなりリアリティがある話なんです。

 演劇なら、役者の肉体がそこに存在するので、設定をシュールに飛ばしやすい。でも小説は文字だけなので、ある程度の地に足のついた感じや普遍性が必要だと思って書いていました。単純に面白くてみんなに伝わるものを書きたいという、その何かを伝えたい気持ちが、小説を書くモチベーションになるんだと思います」

 そうした鬱屈した状況を、最終的には主人公が力業で突破する「脱出のビジョン」が松田氏にはあり、だからこその饒舌さだったという。

「僕の中にも饒舌な部分と無口な部分はある。特に主人公が陥るような辛い状況では、ただただ落ち込んで疲弊しがちではあるんです。でも一度そうなると二度と立ち上がれない場合だってある。だから脱出に向けた突破力を獲得するため、思ったことを全て言葉にするような自分の中の饒舌さに焦点を当て、それをエンジンに書き進めていきました」

 大金を投じて誂えた拘りのジャケットを〈これって素敵〉と言って無理やり羽織り、〈ランウェイ〉さながらに練り歩くリーダーや騒ぎに便乗する同僚達には、〈一体何が起こっているのか〉と主人公ならずとも腹が立ち、そこに悪意を見て当然とも思う。だが彼女が〈退屈に慣れ切って、やがて窮屈さにも順応していく〉ことを拒み、文字通りの変身すら遂げる姿はいっそ痛快で、泣けてくるくらい可笑しい。

「この小説を『言葉ですっぽんぽんになれている』と評してくださった選考委員の町田康さんは、ご自身の著書『私の文学史』の中で『笑えることは「本当のこと」』とも書かれている。

 真実というと完璧に削ぎ落とされた玉みたいなイメージがありますけど、本当はもっと過剰でノイジーなものじゃないかと僕は思うし、特に今は一見普通に見えて、中身はグチャグチャになっている人が、周りにも多い気がするんです。とっ散らかった内面の出し方もわからないし、出してどうなる、みたいな。本書は主人公の内側で起きたことを隠さずそのまま書いたら笑えてきた感じがあって、今後もそういうノイジーで面白い本当のことを書いていけたらなと思っています」

 確かに人間、一皮剥いた内側では夥しい感情や言葉が渦を巻き、その迸る言葉達が何をどう突破してくれるのか、ぜひご一読あれ。

【プロフィール】
松田いりの(まつだ・いりの)/1991年静岡県浜松市生まれ。大学進学で上京。大学在学中は劇団で脚本や演出等を手がけ、卒業後は一般企業に就職。創作活動からはしばらく遠ざかっていたが、今年1月に『ハイパーたいくつ』の執筆を開始。第61回文藝賞を初小説、初応募にして受賞し、作家デビューを果たす。「何しろまだ1作しか書いていない状態なので。果たして自分に何ができるかを、今回のような饒舌体に限らず、試して楽しみ耕していきたい」。181cm、60kg、AB型。

構成/橋本紀子

※週刊ポスト2024年12月27日号

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