2024年は日本プロレス界の祖にして戦後最大の英雄・力道山の生誕100周年。失意の敗戦国に明るい光を与えるも、39歳で非業の死を遂げた力道山の生涯を貴重写真と話題作『力道山未亡人』著者・細田昌志氏のレポートで振り返る。
* * *
1945年8月15日の敗戦を機に日本の進むべき道は決まった。戦勝国・アメリカへの屈従である。
国民にとって夫や子を殺された恨みもあったが、まずは空腹をどうにかしたかった。敗戦から9年が経ち、安定を取り戻しつつあった頃、現れたのが力道山である。プロレスのリングで戦勝国の白人レスラーを空手チョップでなぎ倒すと全国民が欣喜雀躍した。無理もない。敗戦の屈辱をこんな形で晴らしてくれる存在が現れようとは、誰一人として想像していなかったからだ。
その異常人気に目を付けたのが時の政権だった。国民の間に浸透しつつあった共産主義への抑止力として、力道山を利用しようと考えたのだ。
力道山が世に出た1954年の翌年に自民党が結党しているように、これ以降、力道山の周辺には保守政治家の姿がやたら目立つようになる。建設大臣の河野一郎、運輸大臣の楢橋渡、自民党副総裁の大野伴睦に至っては日本プロレスコミッショナーとして興行に睨みを利かせてもいる。
彼らの思惑が力道山人気で有権者の歓心を買うことと、迂回させて得た興行収入を政治資金にしたかったことなのは察しがつくが、力道山にとっても政治家の存在は得難いものだった。トラブルを政治の力で揉み消すことが出来たし、ビジネスに大いに役立ったからだ。
プロレスを成功させた力道山の次なる目標は、その資本を元手に多角的な事業に打って出ることだった。特に不動産開発に執念を抱き、戦後15年が経過しながら、散在していた所有者不明の土地・物件を買い漁った。
その過程において政治との癒着は不可欠で、よく知られるのは相模湖畔の52万坪だろう。ゴルフ場、遊園地、レース場、ホテル、ショッピングモールの建設を計画、完成した暁にはプロレスを引退し、本格的な実業家への転身を企図していた。
さらに、政治への野心もあった。
「主人は最終的には政治家になって朝鮮統一を成し遂げようと考えていました。当然、莫大な資金が必要で、そのための事業だったんです」(力道山の妻だった田中敬子)
その矢先の死である。志半ばで潰えた彼の夢は、愛弟子であるアントニオ猪木が一端を引き継いだように映るが、猪木も鬼籍に入った今、力道山の本心がどこにあったか知る術は何もない。ただ、彼が長く生きていれば、我が国はこうまで、アメリカに盲従することはなかったのではあるまいか。
【プロフィール】
細田昌志(ほそだ・まさし)/1971年、岡山市生まれ。鳥取市育ち。CS放送キャスター、放送作家を経て作家に。『沢村忠に真空を飛ばせた男』(新潮社)が、第43回講談社 本田靖春ノンフィクション賞。近著『力道山未亡人』(小学館)が第30回小学館ノンフィクション大賞を受賞。新刊『格闘技が紅白に勝った日~2003年大晦日興行戦争の記録~』(講談社)は12月17日発売。
※週刊ポスト2024年12月27日号