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《渡辺恒雄さん追悼》田原総一朗氏が明かす「安倍晋三・元首相も怖がっていた」素顔

NEWSポストセブン 2024年12月23日 16時15分

 政界に大きな発言力を持ち、「総理の指南役」とも呼ばれた渡辺恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役主筆が12月19日、死去した。98歳だった。「終生一記者」を自認して最後まで読売の主筆を務めたが、その存在は新聞人の枠を大きく超えていた。

 大野伴睦、中曽根康弘という大物政治家の懐に深く食い込み、日韓条約交渉、小渕政権の自自連立、福田康夫政権では自民、民主両党の大連立を仕掛けるなど、70年にわたって戦後政治の重要な場面で政界を内側から動かした。影響力は政界のみならず、官界、経済界、言論界、スポーツ界に広く及び、「最後の黒幕」的な人物でもあった。

「渡辺さんが亡くなったことは残念ですが、日本の政治への影響というのはないと思う。というのも、これまでの日本の政治の動向は、彼の思う通りになっていっているからです」

 そう語るのは渡辺氏と長い親交があった政治評論家の田原総一朗氏だ。田原氏が渡辺氏との議論を重ねるなかで感じたその思想の根幹にあったもの、日本政治への思いを追悼として語った。

「私は以前、責任編集で出版していた『オフレコ!』で、2005年にかなり長い分量の巻頭対談を渡辺さんと行なっています。そこでも出ているが、彼が徹底的に政治の上で前提としているのは、『日本を絶対戦争しない国にする』ということです。そして、靖国神社には絶対参拝はしない。靖国には戦犯が奉られているからです。

 渡辺さんは僕よりちょっと年上なので、戦争に行っているんですよ。東大生だから、いろんなやり方で徴兵から免れることはできたんだが、あえてそれをやらずに戦争に行った。陸軍に入った。が、そこではかなりいじめられたんです。それは東大だから、やっかみを受けてのことだと思います。そうした体験も含めて、渡辺さんは日本は二度と戦争をしてはならないと固い信念を持つようになったのです」(田原氏、以下同)

「日本と米国は対等でなければならない」

 渡辺氏は沖縄戦が始まって日本の敗色濃厚になっていた昭和20年4月に東京大学哲学科に入学。わずか3か月後の6月29日に召集令状を受け、陸軍二等兵として三宿砲兵連隊に入営。相模湾に上陸してくる米軍を榴弾砲で迎え撃つために部隊が移動した神奈川県茅ヶ崎で敗戦を迎えた。

「それとも関連しますが、渡辺さんは日米同盟には賛同はしているが、日本と米国は対等でなければならない、ということも信念として持っていました。その前提として、実際の日米同盟というのは、日本の対米従属関係であったということです。日本は米国に守ってもらっている。米国の軍事で日本を守ってもらっている。だから、米国の言うことは何でも聞かねばならない。そういう関係が現実でした。

 そうしたなかで1970年代、80年代に日本は、経済力で世界一の立場にありました。ジャパン・アズ・ナンバー1と言われていた。しかし米国は1980年代、経済が赤字になる。米国経済は悪化していったのです。そのなかで、レーガン大統領が、日本を潰せと言った。その後、構造協議などで歴代の米政権は日本経済を潰していった。

 そのレーガンの時代、日本では中曽根政権でした。その中曽根さんに僕は言ったんだ。『何で日本として、言うべきことを言わないのか』と。中曽根さんは『日本は米国から守ってもらっているから、残念だが抗議できないんだ』と説明するわけです。米国に言いたいのはやまやまだが、日本を守ってもらっている以上、それはできないのだと。

 これを何とかして変えられないか、それが渡辺さんの想いであり、そのために政治を強くしなければならないと考えていたわけです。

 日本が米国と対等になるには、日本が米国と闘っても勝てるぐらいの軍事力を持たねばならない。当然、核兵器も持たねばならない。それを阻んでいるのは日本国憲法であり、だから憲法改正をしなくてはならない。そのためには政治が強くならなければならない。その思いで政治に関与してきたのです」

石破首相に「情けない」と思っているのではないか

 渡辺氏が長く主筆を務めた読売新聞は独自の「憲法改正試案」を発表するなど、「憲法改正」を正面から社論に掲げている。

「同様に、日米地位協定も撤廃しなければならない。地位協定こそ、日米が対等ではないという関係の象徴的なものだったからです。そういう想いのなか、米国は姿勢を変え始める。世界の警察であり、パックス・アメリカーナだった。その体制維持を諦めるという方向に舵を切った。それはどんどん進み、バイデン大統領は日本の岸田文雄・首相(当時)に、西側の安全保障は米国一国では賄いきれないとして、日本に協力を求めてきた。それが今の防衛費増強の元になったことです。

 これで日本の発言力は高まります。渡辺さんの直接的な動きではないが、長年取り組んできたものが一歩前進しているという状態です。加えて来年からトランプ大統領になる。トランプはアメリカ・ファーストを掲げており、恐らくウクライナからも手を引くでしょう。この流れは、パックス・アメリカーナからの脱却をさらに強める。日本の軍事力にも頼る割合は高まります。渡辺さんの求めてきた、あるべき日本の姿の方向に動いているのです。

 ただもう一つの日米地位協定については、なかなか動かない。石破茂・首相が総裁選で、地位協定の廃止に言及はしたが、首相になった途端にそれを引っ込めた。渡辺さんからすれば、『情けない』というふうに映ったでしょう。

 ともかく、これで日本の軍事力も高まり、今よりも日米関係は対等なものになっていく。その方向は渡辺さんの望むものだった。ただ石破首相が弱腰になったことで、地位協定の行方が分からず、その点は渡辺さんも忸怩たる思いで亡くなったのではないでしょうか」

会合に呼ばれなくなった

 渡辺氏は故・安倍晋三元首相の「政治の師」だったことでも知られる。2人は頻繁に会談を重ね、安倍政権時代の2017年5月3日、読売新聞は「憲法改正 20年施行目標 9条に自衛隊明記」の大見出しで安倍氏のインタビューを掲載した。安倍氏はそのなかで改憲の具体的内容に踏み込み、国会で質問されると、「自民党総裁としての考え方は相当詳しく読売新聞に書いてありますから、ぜひそれを熟読していただいてもいいだろう」と答弁した。

「安倍さんの政治方針は、渡辺さんと一致していたというのは、間違いないでしょう。ただ安倍さんは渡辺さんを怖がっていたところがあったようで、あまり直接の交流はないと思います。安倍さんも、渡辺さんに対して、怖くて話せなかったんじゃないか。

 しかし、憲法改正について考えは同じだったし、地位協定に関しても安倍さんは撤廃を望んでいたと思う。ただ、地位協定撤廃を唱えれば、すぐに米国から潰されるので、手を出せなかったんでしょう」

 渡辺氏がかかわった政界工作の中で、とくに衝撃を与えたのが福田康夫政権時代の自民党と民主党の大連立構想だ。実現はしなかったが、福田首相と当時の民主党代表・小沢一郎氏の間を仲介し、小沢氏に連立を持ちかけたのは渡辺氏だった。

「これも根本は同じです。日本を米国と対等にするため。そのためには日本の政治が強くなければならない。あの時は自民党も弱っており、日米関係でも日本の発言力も弱っていった。それではまずい。だから大連立で日本の政権を安定化させ、日米関係も対等にさせる。大連立となれば、憲法改正にも一歩近づきます」
 
 渡辺氏は政治評論家などを集めて「山里会」と呼ばれる勉強会を主宰。言論界に影響力を及ぼすと同時に、政治家にとっては「山里会」にゲストで呼ばれることが、渡辺氏に“一人前”と認められるための登竜門とされていたが、田原氏は批判的だ。

「渡辺さんは、ああした会合を通じて、自らの意見を披露し、そうした政治評論家らの意見をリードしていったのです。参加メンバーの意見はどんどん渡辺さんの意見に重なっていく。それによって、渡辺さん自身が黙っていても、彼ら評論家がメディアなどを通して国会議員や世論に訴えて行なっていく。そうした仕組みと見ていいでしょう。

 僕は渡辺さんにも言いたいことを言ってきた。日米地位協定の廃止では意見が同じだが、軍事力強化は相いれなかった。その点では論争になります。だから僕は渡辺さんの会合には呼ばれなくなった。反論をする者を呼ばないということこそ、こうした勉強会がどういうものであるかを物語っている」

 田原氏は最後にこんな言い方で渡辺氏の死を悼んだ。

「僕とは意見の違う人でした。それでも渡辺さんは、自身の信念を公然と言う人でありました。信念を公然と述べるという意味で、貴重な方だったと思います。だから渡辺さんとはもっと本音の討論をしたかった。その点で、残念に思います」

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