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元日で90歳になる倉本聰氏インタビュー「まだまだ書きたいことがある」衰え知らずの創作意欲と野望を語る

NEWSポストセブン 2024年12月30日 7時15分

 構想60年の大作を世に問い、90歳を前にして今もなおペンを走らせる──。元日で卒寿を迎える巨匠・倉本聰氏が、衰え知らずの創作意欲と野望を語った。(文中敬称略)

「タバコも酒も全然減ってない」

 最高視聴率38.4%を叩き出した『北の国から』をはじめ、数々の名作ドラマを世に送り出してきた倉本聰。北海道・富良野に移り住んで47年が過ぎ、1月1日で齢90を迎える。アイディアはなおも湧き出し、創作活動は途切れない。

「連載はあるし、ドラマのリメイクの予定もあって、毎日ひいこらいっている。最近、手が昔みたいに動かなくなっちゃって、脳みそが考えるスピードに手の反応が追いつかず、長いものなんかはイライラしながら書いています。もう普通の人には読めないような汚い小さな字だから、見慣れた秘書にパソコンに入力してもらって仕上げているんですが」

 老いを嘆きつつも、倉本はもう何十年も変わらず毎日80本のタバコを吸い、食中酒としてウイスキーを2杯、食後にジンやラムを嗜んでいる。

「タバコも酒も全然減ってない。もともと強いのか、そういう風に鍛えちゃったのかわからないですけど、いまさら生活習慣を改めるとかえってよくないだろうと思って。主治医ももう何も言いませんよ。諦めてます(笑)」

 2024年11月には、“倉本聰最後の映画”と銘打たれた『海の沈黙』が公開され、話題を呼んだ。

 テーマは「美とは何か」。重要文化財に指定された鎌倉時代の壺が実は新たにつくられた現代の贋作だとわかり、指定を取り消されるという65年前の「永仁の壺事件」に材をとり、倉本が60年余りあたためてきた物語だ。

「その顛末が不思議でならなかった。鑑定家らによって美しいと価値を付与されたものが古いものではないとわかった途端に価値がなくなってしまう。そうした権威の疑わしさ、翻弄される世間への皮肉を書いてみたいとずっと思っていました」

 倉本は東大時代に美学を専攻。そこで学んだアリストテレスの「美には利害関係があってはならない」という一節を座右の銘としてきた。映画終盤で主人公・津山竜次(本木雅弘)の番頭役・スイケン(中井貴一)が吐く台詞には倉本の積年の思いが込められている。

「有名であろうと無名であろうと、金持ちであろうと貧しくあろうと、美しいということ、それは絶対だ」──。

 これまでの倉本作品に貫かれてきた哲学でもあるのだろう。

 東大卒業後、ニッポン放送に入社した倉本は、ラジオドラマの制作に携わる。4年後にはニッポン放送を退社し、シナリオ作家として独立。1970年代に入ると、『2丁目3番地』『舷燈』『赤ひげ』など数々のテレビドラマの脚本を執筆し、その才能を一気に開花させていく。

「転身」を考えた過去も

 1974年には大河ドラマ『勝海舟』の脚本を依頼される。

 だが、30代の有望なライターはここで躓く。資料の読み込みなどに半年を費やし、台本の5分の3ほどを書き上げたところで、NHKの演出側とぶつかったのだ。台本を断りなく書き換えられたりしたことで、両者の間では軋轢が生じていた。

「あの頃、ものすごく冴えていたんですね。と同時に、驕りというようなものも自分の中にあったんだと思う。だから、必要のない衝突を繰り返しちゃったわけです」

 札幌へ逃避し、原稿を送り続けたが、溝は埋まらず、倉本は放送途中に降板を余儀なくされる。

「もうシナリオライターを続けられるとは思わなかった。それで札幌でタクシーの運転手になろうと思ったら、北海道の連中が『あんたの顔はタクシー向きじゃない。トラックのほうが儲かる』と言う。実際、中古のトラックを買うつもりで、教習所にも申し込み用紙を取りに行きました」

 しかし、このとき北海道で絶望を味わい彷徨ったことで、倉本の人生は大きな弧を描いて新たな道を示し始める。周囲もまた有望な脚本家を放ってはおかなかった。

 40歳を迎えた1975年には『前略、おふくろ様』(日本テレビ系)がスタート。萩原健一、桃井かおり、梅宮辰夫といった役者陣を揃えたドラマは一世を風靡し、板前ブームを巻き起こした。

 そしてその2年後、倉本は北海道・富良野へと移住し、ゼロから荒れ地に家を建て出し、少しして『北の国から』(フジテレビ系)に取り組み始めるのだ。

都会のあほらしさが見えてきた

『北の国から』シリーズの第一話は、黒板一家の純(吉岡秀隆)の「電気がなかったら暮らせませんよッ」という父・五郎(田中邦衛)に向けた台詞から始まる。まさにそれは、電気もガスも水道もない富良野にやってきた倉本自身の目線だった。

「暮らし始めた最初は見るもの聞くものが珍しく新しくて、まさに純の視線でした。でも、北海道の人と出会い、荒れ果てた森と向き合ったりしながら、少しずつわかってきたら、シリーズの後半からは五郎の目線になっていった。経済だけしか見てない都会のあほらしさが見えてきたんです」

 バブル期前後の社会の矛盾や人間の喪失感を射た倉本は、シリーズ最終話「2002遺言」まで最果ての地から世の中に「本当にそれでいいのか」と問い続けた。

 倉本は一方で、テレビという媒体に対しても常に石を投げ続けてきた。老人ホームを舞台にした『やすらぎの郷』(テレビ朝日系、2017年)にも容赦ないテレビ批判が込められていた。

 タバコをくゆらせながら、倉本聰はこう語る。

「昔、一緒に仕事した連中、情熱を共有していた人たちはみんな死んじゃったし、若い人のテレビ離れもあるし、時代は変わってしまっている。テレビも映画も、昔は感動をめざしていたけれど、いまは快感を目的につくられているでしょ。面白ければいい、すぐに忘れられてもいい、と。でもね、昔の映画とかは、いま見返しても泣けちゃうんです。心に残る、何度でも見られる、それが本物の作品なんじゃないかなと思います。そんないい外国映画を見たときには、書きたいという創作意欲、情熱も湧いてくる。書ける間はまだまだ書き続けたいと思ってます」

 60年以上にわたって第一線を駆け抜けてきた脚本家は、たったいまも今夏放送予定の新ドラマと格闘している。卒寿を迎えた倉本聰は、いったいどんな問いを私たちに投げかけてくるのだろう。

取材・文/一志治夫

※週刊ポスト2025年1月3・10日号

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