師走に入った千葉県の鎌ケ谷スタジアムで、24歳になった柿木蓮は汗を流していた。大阪桐蔭のエースナンバーを背負って春夏の甲子園を制したのは2018年のこと。100回目の記念大会だった夏の決勝でカナノウ旋風を起こした金足農業の吉田輝星(現オリックス)と投げ合い、同年のドラフト会議では北海道日本ハムより5位指名を受けて入団した。根尾昂(現中日)や藤原恭大(現千葉ロッテ)らと並ぶ世代を代表する選手だったが、1軍での活躍ができないまま6年が経過したこのオフに戦力外通告を受けた。(前後編の前編)
11月14日に行われた12球団合同トライアウトを受験するも、柿木に声をかけるNPBの球団はなかった。現在は、球団の温情によって慣れ親しんだ鎌ケ谷の二軍施設での自主トレを許可され、“再就職先”を模索する日々を送っている。練習終了後、柿木の運転する光岡自動車「Buddy」で新鎌ケ谷駅近くのファミレスに向かった。
「今、話が来ているのは独立リーグの球団と、社会人のチームですね。クラブチームからのオファーはお断りしました。最初は独立も考えられなかったんですけど、これから“1年勝負”と考えた時に、独立のほうがNPBに戻れるチャンスはあるのかな、と。話が来ているところと条件を話し合っているところですね。引退の可能性? ゼロではないです」
北海道日本ハムに在籍した6年で柿木が1軍の試合に登板したのは2022年シーズンの4試合だけだ。そのオフには育成に降格し、支配下復帰を果たせぬまま時間は過ぎていった。今年は5月に右手の指の爪が割れ、1か月半ほど投げられない時期があった。
「そのまま(支配下登録の期限である)7月末を迎えてしまって……復帰後の2軍での試合の起用法から考えても、もう来年はないだろうなと覚悟していました」
「投げ方が分からなくなっていた」
高校時代の柿木の投球フォームは真上から投げ下ろす豪快さがあったが、プロ入り後は彼の登板を目にする度にフォームが大きく変化していた。ある時は脱力した投げ方に、またある時は山本由伸(現ドジャース)を模したような投げ方に。トライアウトでは、ややヒジを下げたスリークォーター気味の投球フォームとなっていた。
「自分で意図してフォームを変えていたわけでもないんです。どうやって投げたら真っ直ぐの入射角や変化球の落ち幅、曲がり幅が理想に近づくのか。その時々で、一番良いボールが投げられるフォームを意識してきました。プロ入り後、自分が一番苦しんだのは、イップスでした」
イップスとは以前までは当たり前にできていたことが、突然、できなくなってしまうアスリート特有の運動障害だ。たとえば、一度のデッドボールを機にインコースにボールを投げられなくなったり、一塁への悪送球によって短い距離の送球が困難に陥ったりすることをいう。投手がイップスに陥る原因も症状も様々である。
柿木の場合は入団2年目の2020年シーズンにおける千葉ロッテとの2軍戦が引き金となった。リリーフ登板した柿木に、1球だけ、捕手が捕球できないほど高めに抜ける暴投があった。失点にはつながらず、無事に登板を終えたものの、その日の試合後、調整を目的にブルペンで投げ込みを行った際に再び異変が生じた。
「コーチがキャッチャーを務めてくれたんですけど、そこコーチが手を伸ばしてもぜんぜん届かないぐらい高めに抜けたボールを投げてしまったんです。コーチも異変を察したのか、『今日はやめておこう』と。それから5日間ぐらいノースローで様子を見ていたんですが、次にブルペンに入った時にはもう、投げる感覚、投げ方がわからなくなってしまっていた」
次第に先輩を相手にしたキャッチボールでも恐れを抱くようになり、ブルペンでは捕手の背後に人が立っていたらコントロールを失った。もし暴投して当ててしまったらどうしよう――そんな不安が柿木を襲うのだという。
「例えば、捕手のすぐ後ろにネットが張られていると問題ないんですけど、ファウルゾーンに設置されたブルペンのように、万が一暴投したら捕手が遠くまでボールをとりに行かないといけない場所だと、プレッシャーを感じてボールをコントロールできないんです。それまで、他の人がイップスになったのを自分も見てきましたが、どちらかというと生真面目なタイプが多かった。だから、自分は絶対にイップスにはならないだろうと思っていました(苦笑)。なってからは本当に大変で、2年目から3年目にかけては、フォームがずっとバラバラでした」
イップス対策の「ポジティブノート」
アスリートは誰しも、自分がイップスだとは認めたくないものだ。それゆえ、イップスへの対処法は、まずは自分がイップスであることを認めることから始まると言われる。
「今まで普通にできていたことが突然できなくなるんですから、これはもうイップスだと認めるしかなかったです。イップス経験者の話を聞いたり、YouTubeで良い対処法があれば試してみたり……。自分の場合は、暴投してもいいんだ、と開き直ったり、暴投した自分が悪いのに捕れなかった捕手のせいとして割り切ることで、気持ちが少しラクになりました」
毎日、自分自身に起きた良いことだけを綴る「ポジティブノート」を習慣にし、少しずつ精神面の不安を振り払っていく。グラウンドに出れば指先の感覚を取り戻すために短い距離のキャッチボール(ショートスロー)を繰り返し、そこで掴んだリリースの感覚を投球フォームに落とし込む。「とにかくブルペンで投げる球数は増えました」と柿木は振り返る。
ようやくイップスから解放されつつあったのが2022年シーズンだった。1軍の試合にも初登板した。だが、オフに待っていたのは1度目の戦力外通告だった。かつて強豪・大阪桐蔭で躍動した元エースは、育成契約の打診と2度目の戦力外通告をどう受け止めたのか――。
(後編に続く)
■取材・文/柳川悠二(ノンフィクションライター)