北海道日本ハムを戦力外となった元大阪桐蔭のエース・柿木蓮は、入団2年目の2020年シーズン中にイップスを発症していたことを明かした。試行錯誤を繰り返しながら、入団4年目の2022年には初めて1軍登録され、4試合に登板する。しかし、オフに入って支配下から育成に降格する──事実上の戦力外通告を受けた。柿木は球団からの育成打診を受諾したが、「37」の背番号は翌2023年シーズンから3桁の「137」になった。(前後編の後編。前編から読む)
「父親からは『十分に頑張った』と引退を勧められました。だけど、初めて1軍で投げることができて、自分なりに手応えを感じていたタイミングだったんです。育成に落とされたショックよりも自分への期待が勝っていました」
2023年シーズンは7月末までに2軍の27試合に登板し、3勝1敗で防御率は2.12。プロ入り後、初めて納得できる結果を残せていた。周囲だけでなく、誰より自分自身が支配下への返り咲きを期待したが、声はかからなかった。
「どうしたら支配下になれるんですか」
柿木は球団関係者にそう詰め寄った。
「プロに入ってからの4年間で一番良い状態だったんです。7月中旬頃に、ふたりの外国人選手が退団して支配下の枠が空いていた。チャンスはあるかなと思っていたんですけどね。当時の2軍監督だった木田優夫監督に呼ばれて、『チーム事情もあるし、支配下の枠(70人)の問題もあるから』と説明されたあとに『もっとスピードを上げて欲しい』と言われました」
柿木の直球のMAXは151キロ。これは高校時代最後の夏の甲子園で記録したもので、プロに入ってからは150キロが最速だ。高校時代の自分を超えられないことほど、屈辱的なことはないかもしれない。プロ入りしてからずっとスピードを追い求めてきた柿木にとって、木田の言葉は心に重く響いた。
「悔いはない。でも、すぐに野球をやめようとも……」
2024年シーズンも爪が割れるアクシデントがあって支配下にはなれず、柿木は白星も黒星もつかないまま、2度目の戦力外通告を受けた。
「プロ野球選手として何もしていないですよね。ただ、悔いはないです。悔いを残さないように毎日を過ごそうとしてきましたから。だからといって、すぐに野球をやめようとも思わない。もう一度、勝負したいです」
柿木が大阪桐蔭に入学したのは2016年4月だ。夏の選手権大会が100回目を迎える2018年に3年生となる柿木らの世代は、入学の前から逸材揃いだと注目を集めていた。根尾昂(現ドラゴンズ)や藤原恭大(現千葉ロッテ)らが中学時代から名を馳せるなか、佐賀出身の柿木もボーイズジャパンに選ばれた注目選手の一人だった。
「僕は野球しかやってこなかった人間で、学力があるわけでもないし、高校からプロに行くために大阪桐蔭に進学することを決めました。声をかけてもらったのは中学2年生の夏前でした。その年の8月に桐蔭は全国制覇するんですけど、とにかく打ち勝つチームでしたね。僕が中学時代に所属した東松ボーイズは、打てないチームだったんです。全国大会でも0対0で試合が進んで、僕がマウンドを降りたあとに点を取られて負けるようなことが続いた。だから高校は、打てるチームに行きたいという思いがあった」
中2の夏前には声が掛かっていたというのだから、いかに大阪桐蔭の指導者が柿木に期待していたかがわかる。
「入学するまで僕は、自分は野球エリートだと思っていました。それは桐蔭に入学してくるような選手のほとんどがそうだと思うんですけど、自分はエリートなんかじゃないとすぐに気付かされました。先輩だけじゃなく、同級生のスイングスピードからしてえぐかった」
「僕らのせいでと聞くと申し訳ない」
柿木は2年春のセンバツに、ケガを負った選手の代わりに背番号「2」で選手登録され、マウンドにも上がった。夏は柿木が先発した仙台育英戦で好投をみせるも、9回裏に仲間のミスもあり、サヨナラ負けを喫する悲運の投手になった。最高学年になると根尾や横川凱(現巨人)らとエースの座を争い、柿木が春も夏も「1」を背負った。そして春夏連覇を達成した彼らは「大阪桐蔭史上最強世代」と呼ばれた。
森友哉(現オリックス)が埼玉西武に入団した2012年頃、大阪桐蔭を卒業したプロ野球選手は早くから活躍が期待できるという声が多かった。しかし、森を最後に日本を代表するような選手にまで成長した大阪桐蔭OBはいない。柿木と同じ最強世代で、同じく高校からプロに入った根尾や藤原、横川は、高校時代の知名度や入団時の期待値からすれば、プロで大活躍しているとは言い難いだろう。なぜ近年の大阪桐蔭OBはプロで活躍できないのか――。
「それはもう、選手である自分たちが悪いとしか言えないです。正直、卒業した学校や恩師の名前でプロでの実績が作られるわけではないですよね。やっぱり入団してから成長できていない自分たちに責任がある。僕らが活躍できていないことで、大阪桐蔭に良い選手が集まらなくなっているとかいう話を聞くと、申し訳ないなという気持ちになります」
ファミレスでの昼食を終え、再び、柿木の愛車「Buddy」に乗せてもらい新鎌ケ谷の駅へ向かう。光岡自動車がトヨタのRAV4をベースにして改造・販売するこの車種を選ぶところに、柿木のこだわりも見える。
「人と被りたくなくて、ディーラーさんに『この車に乗っているプロ野球選手はいますか?』と確認したうえで、購入しました」
今後に関して柿木は「年内には決めたい」と話していた。
「NPBに戻ることを考えるならば独立(リーグ)がいいのかもしれない。チームの一員として、勝ちに行く野球、日本一を目指す野球を自分がしたいのならば社会人がいいのかもしれない。24歳という年齢は、僕の中では若いとはいえないですが、できるだけ長く野球を続けたいとは思っています」
甲子園のマウンドでみせた、躍動感溢れる柿木のピッチングをもう一度見たいと期待しているのは筆者だけではないだろう。
(了。前編から読む)
■取材・文/柳川悠二(ノンフィクションライター)