品川の大規模再開発工事をすすめていた2019年、日本の鉄道の始まりの歴史を記す「高輪築堤」が見つかった。地権者であるJR東日本は保存に後ろ向きだったが、三代目歌川広重の錦絵に残る、東京湾の漁場へ向かう船の上を蒸気機関車の様子が現実にあったと世間は沸き立ち、政治も動いて一部の保存が決まった。その高輪築堤は別の個所が発見されたり、今後も新たに見つかる可能性が高いが、保存や保護に対する議論は残念ながら低調になりつつある。ライターの小川裕夫氏が、新たに発掘調査と一般公開が行われたことをきっかけに、高輪築堤の今後についてレポートする。
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2024年12月8、9日に東京・港区の高輪ゲートウェイ駅前で進められていた高輪築堤の発掘現場が一般公開された。
高輪築堤は1872年に国内最初の路線となる新橋(後の汐留)駅―横浜(現・桜木町)駅間の開業時に東京湾の浅瀬に建設されたもので、線路付け替えや品川車両基地などで使われなることによって姿を消していた。ところが、2020年に山手線の新駅を建設するための工事を実施した際に石垣の一部が発見され、歴史に埋もれていた高輪築堤が残存している可能性があることから港区とJR東日本が調査を開始。その調査で高輪築堤の遺構が確認される。
新駅は高輪ゲートウェイ駅と命名されて2020年に開業したが、その後も発掘と調査は続けられた。出土した遺構は菅義偉首相(当時)も視察し、歴史的にも価値があるとしてできるだけ保存するように指示。菅首相の指示を受けて、高輪築堤の一部が国指定史跡となった。
高輪築堤の一部は現地保存されることになったが、大部分は記録保存・移設保存となった。そして、2025年3月に一帯はTAKANAWA GATEWAY CITYとして、まちびらきする予定でプロジェクトが進んでいる。
「事業地内は南北に約1.3キロメートルありますが、そのうち第1期の事業地内からは900メートル弱の遺構が残存していることを確認しています。そのため、港区は2021年に高輪築堤を現地保存するように要望書を提出しました」と説明するのは、港区教育委員会事務局推進部図書文化財の担当者だ。
港区のほか歴史・鉄道関連の学会も現地保存を呼びかけたが、JR東日本は第2街区と第3街区から出土した遺構の一部を現地保存、第4街区の信号機台部と思われる石垣に関しては移築保存という結論に至っている。
第1期工事前との遺構保存への熱意の違い
JR東日本がすすめる高輪ゲートウェイ駅前開発は、第1期工事(2025年3月開業予定)として1~4街区、第2期工事が5~6街区となっている。このほど一般公開された遺構は5~6街区から出土したものだ。第2期工事で出土した遺構や遺物については、第1期工事が始まる前と比べて、関係者の熱量が少ないように感じられる。
たとえば港区は「第2期工事の5~6街区から出土した高輪築堤の遺構について、JR東日本に対して特に要望書は出していません」(同)という。また、第1期工事が始まる前には高輪築堤から露出した石などの寄贈してほしいと、大隈重信が鉄道開業に大きな功績を残したという関係から早稲田大学や出身地の佐賀県からも申し出があったが、今回の遺構について寄贈してほしいというリクエストはなかった。そして、5~6街区の遺構は調査終了後に埋め戻された。
第1期工事の1~4街区に関しては、行政や学会なども大きな関心を寄せて開発に対する意見も活発に出されていた。一方、第2期工事のために埋め戻された5~6街区に対しては、そうした声は聞こえない。なにより、土地の所有者であるJR東日本も現段階で開発ビジョンを明確に示していない。
「第2期エリアの具体的な文化財保存とまちづくりの両立の考え方につきまして、東京都や港区とは今後の調整・議論になります。港区教育委員会による確認調査にて遺構の状況を把握したうえで、今後は文化財行政や有識者のご助言をいただきながら検討のうえ、文化財保護法等関係法令に則って適切に対応します」(JR東日本コーポレートコミュニケーション部門報道担当)
第1期工事が終了し開業の目処が具体的になったとして、JR東日本は2025年3月にTAKANAWA GATEWAY CITYとしてまちびらきすることを発表している。そして、2024年10月30日にはTAKANAWA GATEWAY CITYのまちびらき150日前の記者会見を実施した。
その記者会見では、喜勢陽一・JR東日本社長が登壇し超高層のツインビルが並ぶ完成予想図などを披露しながら開発の意義を説明した。披露されたイメージ図を目にすると、第2期工事が始まる5~6街区も同様の開発プロジェクトが立ち上がることが予想される。
我が国の歴史や文化をどう保存し、後世へ伝えるか
高輪築堤が建設された当時は、鉄道への風当たりが強かったこともあり内陸部に線路を敷設することが難しかった。鉄道当局は苦肉の策として、品川駅から新橋駅までの線路を海上に建設。この海上に線路を敷設した用地が高輪築堤と呼ばれる。
無事に新橋駅―横浜駅間は開業を果たしたが、すぐに運行される列車の本数は増えていき、それに合わせて線路も増設されていった。品川駅―新橋駅間は1876年には複線化し、1899年には3線化、1909年には4 線化する。同年には、東京駅開業に伴う品川駅の大拡張工事が着工。約26万平方メートルを埋め立てて車両基地の用地となった。
こうした線路用地の拡大の過程で高輪築堤は埋められていき、大正期から地中深くに眠ったままになっていた。明治時代の錦絵など、伝聞によって存在は知られていたものの、正確な記録は存在しない。そのため、高輪築堤が出土したことは歴史的大発見という事態だった。
そして、高輪築堤は港区域だけではなく品川区域にも埋蔵されているとも推測されている。今後、品川区側が開発によって埋もれている遺構をどのように記録、保存するかなどの問題が浮上する可能性は高い。そのときも、今回、公開された遺構へのような曖昧な態度によって「過ぎたもの」として扱うだけになるのだろうか。だが、高輪築堤は港区やJR東日本だけの話ではなく、我が国の歴史や文化をどう保存し、後世へと伝えていくのか、という問題でもある。