12月6日に渋谷の自宅マンションの浴槽で亡くなった、歌手で女優の中山美穂さん(享年54)。まだ14歳だった彼女をスカウトし、国民的アイドル「中山美穂」へと育て上げたのが、所属事務所「ビッグアップル」の創業者・山中則男氏だった。NEWSポストセブンの取材に「おそらく私の立場としては、これが人生最後の取材になると思います。美穂を支えて下さった多くのファンの方に忘れてほしくないと思い、お話させていただきます」と語った。【前後編の後編。前編を読む】
「美穂と最後にあったのは1年くらい前です。なかなかタイミングが合わなかったりして、ようやく食事会で久しぶりに会いました。最後の会話はとりとめのない話で『元気か?』『社長も元気?』……そんな感じでした。それでも私は十分だと思っています。
私がガラケーで写真を撮ったら美穂に『まだスマホじゃないの?』ってからかわれましたよ。いつか、天国から電話くれるんじゃないかなと思ってしまいます……」
中山さんが女優デビューを飾ったドラマ『毎度おさわがせします』(TBS系)への出演後、『夏・体験物語』(TBS系) と、不良少女役が続いた。その時、山中氏は将来を見据えて“不良少女役との決別”を早々に決断していた。
「実は映画『ビー・バップ・ハイスクール』(1985年公開)で、美穂の役は決まっていたんですけど、“そろそろ不良路線から脱皮したいので役を変えて欲しい”と配給元の東映に直談判して役が大幅に変わりました。
音楽もその頃からアイドルっぽい曲から大人を意識した路線に少しず変えていきました。演じることが好きな美穂は台本があると大丈夫なんですけど、台本のないバラエティーやトーク番組は苦手にしていて、いつも苦笑いしてごまかしていましたね。私は好きでしたが、CMのために八重歯を矯正して大手企業のCM契約が次々に決まっていきました」
プライベートではサッカー選手や有名スタイリスト、作曲家など、数々の恋愛が報じられ、恋多き女性だった中山さん。とくに人気絶頂だった9歳年上の田原俊彦(63)との熱愛は、芸能史でも語り継がれる大物カップルだった。しかし、6年後の1992年に破局を迎える。
「破局後も田原さん本人から『美穂と話をさせてもらえないか』と電話があり、未練があるようでした。しかし、グアムで撮影中の美穂に国際電話で用件を伝えると、『もう会うつもりはありません』というのでそのまま伝えて断りました。
デビューして間もない頃は、『男性が近づいてきても、自分が認められるまでは恋愛は我慢だぞ』と注意していました。彼女もそれを守ってくれていましたし、大人になって美穂が男性と付き合っているという話を聞いても、私は止めるようなことはしなかった。恋愛が女優としての中山美穂を大きくしてくれると思っていたのです。キレイになったときに私が『いい恋愛してるな』と美穂に声を掛けると、『わかりますか(笑)』と返してきましたよ。だから長く一線でやれたんじゃないでしょうか」
「役者・中山美穂」の忘れられない作品
「美穂は勘がいい子だった」と、山中氏が改めて振り返る。
「美穂のデビュー当初は事務所にお金がなくて、演技や歌のレッスンを満足にさせることができませんでした。そんな中で『毎度おさわがせします』はぶっつけ本番で下着姿のシーンなど、よくやったなと思うし、よくやってくれたなと思いますよね。度胸がありましたよ。私の想像をはるかに超えて、凄いと思いました」
ほとんど素人だった少女は数年後、『君の瞳に恋してる!』(1989年)、『すてきな片想い』(1990年)、『逢いたい時にあなたはいない…』(1991年)などフジテレビの「月9」のヒロイン役を歴代最多となる7度も演じた。2025年1月9日には、同局で始まる香取慎吾主演のドラマ『日本一の最低男 ※私の家族はニセモノだった』で保育園の園長役として出演する予定だった。
「『どうしても美穂さんでお願いします』という香取慎吾さんの希望でオファーがあったようです。楽しみにしていたので、残念です。人気絶頂期は、自分が主役で出演する作品の主題歌を自ら歌い、あの頃は何をやってもうまくいくような時期でした。夢だった家も母親のために建てることができました。
美穂がどんどん大きくなって嬉しかった半面、私から離れていくような気持ちになり、寂しさもありました。血は繋がっていませんけど、父親が娘をお嫁に出すような思いに近いですね。いつのまにか会う機会や話す時間も減っていき、今の私の部屋には1年前に美穂と撮った笑顔の写真が飾ってあります。僕が照れてしまったけど、まさかそれが最後になるとは思いませんでした」
中山さんの出演作で山中氏が「忘れられない」と語るのが、中山さんが当時トレードマークだったロングヘアをショートにして臨んだ1995年に公開の映画『Love Letter』(岩井俊二監督)だった。
「美穂をキレイに撮ってもらって、1人2役を演じた彼女はブルーリボン賞など数々の主演女優賞を受賞しました。試写会で美穂と一緒に観たときに、彼女はとなりで泣いていました。感極まるものが彼女自身にあったんだと思います。『よかった』と声を掛けると、『ありがとうございます』と一言だけ。若い頃からあまりしゃべらない子で、どんなときでもどこか寂しさや孤独感を感じたことは何度もありました」
「当初は会えていた」山中氏が見ていた母・中山美穂
長野県で生まれた中山さんは、幼少期に両親が離婚。3歳のときに母親と生まれて間もない妹の忍の3人 で上京した。一時期は親戚の家に身を寄せるなど、複雑な生い立ちだった。中山さんは2002年、32歳で作家の辻仁成氏と結婚。翌年にはフランスのパリに移住し、長男を出産した。
「若いころは家庭の問題などもあったと思いますが、(2014年に)離婚してからは、子どもと離れていることが美穂のなかで大きかったのかもしれません。離婚した後もパリへ行ったりして当初は子どもに会えていたと聞いていますが、少しずつ子どもの心が美穂から離れていってしまったようです。
とても子どもが好きな子で、ロケに行っても知らない子とすぐに仲良くなって、遊ぶような性格でした。美穂の複雑な生い立ちを考えたら、“幸せな家庭を築きたい”と強く思っていたと思います。子どもが生まれた頃、子育てに専念したいから“芸能界を辞めたい”と言い出して周囲が説得したこともありました。だけど、思い描いていた結婚生活とは違ったことがいろいろあったのでしょう」
築き上げた“女優・中山美穂”というブランドを捨てる覚悟で、子どものことを想っていた中山さん。山中氏は「あと10年は女優や歌手をやってほしかった」と、悔やむ。
「50代となった美穂がどんな演技をしていくのだろう。どんな歌を歌い上げていくのだろうかとか、楽しみにしていました。2025年の2月で55歳。60歳までの5年間でどういうふうに変わるんだろうなって期待していました。コンサートで声が出ていないなと思うときもありましたが、負けず嫌いですから2025年のツアーを控えてレッスンに取り組んでいたと思います。私が一線を退いてからは、現在の事務所スタッフが一生懸命に美穂を支えてくれて、彼女を大きく育ててくれました」
山中氏は“スターになった中山美穂”がいたことで、多くの人と出会うことができたという。荼毘に付され、最期の別れの時、山中氏は中山さんに向かって「美穂、ありがとうな。よくがんばってくれたね。出会えてよかったよ」と、何度も言い続けたという。
芸能界で数多くの功績を残した中山さんは“育ての親”に見守られ、輝く星となった──。