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【逆説の日本史】「木造文化の国・日本」が率先して進めるべき「トランジスタ原発」構想

NEWSポストセブン 2025年1月11日 16時15分

 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は「新年特別編 後編」をお届けする(第1441回)。

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 この特別編については前号掲載の「前編」を先にお読みいただきたいのだが、見逃してしまったという読者もいるかもしれない。そこで内容を要約すれば、「日本は今後数十年のあいだに、中国発の原発事故のとばっちりを受けるリスクがある」ということだ。なぜなら、「東京から中国・上海まで境無しの空域」だからである。これはもちろん、江戸時代の経世家であった林子平が著書『海國兵談』において日本の海防の危機を訴えた有名な言葉「江戸の日本橋より唐・阿蘭陀まで境なしの水路なり」をもじったものだが、私はこの言葉は日本人がきわめて陥りやすい歴史的弱点を示したものとして尊重している。

 日本は島国であり、独自の文化を育み政治や外交でも独自路線を取ることが可能だった。厄介な国でもある超大国の中国と地続きの朝鮮半島の国家とくらべてみれば、よくわかるだろう。しかし、そうであるがゆえに日本人は民族全体の方向性とか重要な国家方針を定める際に、往々にして世界には日本以外の国、つまり外国があるということを忘れてしまう。

 前編で述べたように、日本史上有数の「賢者」とも言える徳川家康ですら、日本国内で軍縮し武器の改良を停止すれば、恒久平和が維持できると考えていた。しかし、残念ながら日本は外国と海でつながっている。海を自由に航行できる強力な軍艦が展開できる時代になれば、日本は未曾有の国家危機に晒される。外国は日本が鎖国しているあいだにもさんざん戦争し、武器は改良され続けてきた。

 それに対して、戦国時代以来まったく改良されていない武器で日本を守ることはできない。その危機を警告したのが「江戸の日本橋より唐・阿蘭陀まで境なしの水路なり」なのである。「敵はどこからでもやってくる(=長崎など拠点だけを防衛しても意味が無い)」ということで、実際ペリーの黒船は江戸湾に直接侵入したし、他の列強も「境なしの水路」から攻めてきた。

 現在の日本では、与党から野党までほとんどの政党が「代替エネルギーへの転換」を主張している。原子力発電は巨大地震が頻繁に起こる日本ではリスクが高いので、整理縮小廃止の方向に持っていくということである。たしかに日本は世界有数の地震国で、実際に東京電力福島第一原子力発電所で甚大な事故が起こった。今後も起こり得るリスクを考えれば、原発の整理縮小廃止といった方針は完全に正しく、異論の余地などまったく無いように思える。

 しかし、それこそ歴史から見れば日本人がハマりやすい落とし穴であり、私の意見はまったく逆で、むしろ日本はいま以上に原発開発に国力を注ぐべきだということだ。

 なぜ、そうなのか? それは、日本以外にも外国というものがあり、とくに日本の隣りには中国というきわめて厄介な超大国があって「東京から中国・上海まで境無しの空域」だからだ。これも前編で述べたように、彼の国の人口は少なく見積もっても日本の十倍もあり、しかも一人っ子政策という超愚策を実施したために日本より早く高齢化大国となる。

 老人たちをサポートするためにも、国力全体を伸長させるためにも必要なのは電力だが、その厖大な需要は代替エネルギーへの変換などでは到底賄い切れるものでは無く、かといって中国がこれ以上火力発電や水力発電を進めれば、地球環境の大きな破壊につながる。つまるところ、原子力発電しかないのだ。

 そして中国の地勢を考えれば、事故が起こった際に国土が放射能汚染に晒されないように、原発地帯は東シナ海や南シナ海の沿岸に造るのがもっともリスクが少ない。当然彼らはそうするだろうが、それは中国の「風下」にある日本にとっては、中国製原発が狭い海を挟んだ場所に何基も造られ、いつ大事故が起こって放射能汚染が日本を襲うかもしれない恐怖におびえる、ということだ。

 いや、恐怖だけならいいが、中国は自国の高速鉄道が大事故を起こしたときに穴を掘ってすべて埋めてしまい、知らぬ顔をした国である。粗悪な中国製原発が事故を起こしたら、「二十一世紀前半には北九州にも人が住めたのに」などということにもなりかねない。

 この問題の一番厄介なところは、中国国内に原発をどのように造るかというのは純然たる中国の内政問題であって、いかなる国も口を出す権利は無い、ということだ。口を出せば内政干渉になる。また、いかに中国と友好関係がある政治家でも政党でも、まさか中国に対し「粗悪な原発は造らないでくださいね」とは言えない。もちろん外交官も言えない。そんなことを言えば、昔なら戦争になってしまう。また、民主主義国家でも無いから政府に批判的な中国国内の市民団体と連携することも不可能だ。そもそも中国には、政府に批判的な市民団体など存在できない。

 だから、とりあえず「歴史家としての私」が警告したわけだが、ではこの近未来に実現する可能性が高い危機的状況に対して、どのような対策があるだろうか? まず考えられるのは、中国との友好関係を強化し緊密な連携の下で、中国の「原発銀座」の建設に日本も積極的に参加していくという方法だが、じつは私はこの方法は絶対取るべきでは無いと考えている。なぜなら、日本は日中国交回復以来このやり方でさんざん食い物にされてきたからだ。

 要するに、中国共産党は日本の反日マスコミや媚中派の政治家を操り、ODAなどの形で日本から膨大な援助を引き出した。戦前、日本が中国を侵略し莫大な損害を与えたというのは事実だからそれに見合う援助は当然すべきだったが、中国は天安門事件で世界の顰蹙を買って以降も「お人好し」の日本を利用してさんざん金を引き出したうえ、それを反日教育につぎ込んでいる。日本から見れば「金をドブに捨てた」どころか「盗人に追い銭」をしているわけで、これ以上そんな形で中国を利することは、世界平和のためにもやるべきでは無い。

 じつは、私が数年前からこの事態を予測できたにもかかわらず敢えて警告を公にしなかったのは、そうした媚中派だけで無く日本の古い原発にからんだ利権に巣食う連中に、「井沢元彦も原発の必要性は認めている」などという形で私の主張を利用されたくなかったからである。しかし、そうは言っても危機は確実に迫っている。ではどうすればいいのかについて、私はようやく解決策を思いついた。ヒントは前編で述べたように、歴史のなかにあった。

「泥の海」に浮かぶ「箱舟」

 それを語るには、まず日本の歴史の常識をあらためて認識してもらわねばならない。まず認識していただきたいのは、「日本は木造文化の国」であることには誰しも異論が無いだろうが、なぜそうなったのかということである。

 正直言って私もいまから三十年近く前に『逆説の日本史』の古代編を書いたころには、まったく気がついていなかった。数十年たってようやく気がつき、YouTubeの『井沢元彦の逆説チャンネル』にアップし、『真・日本の歴史』(幻冬舎刊)にも書いたので詳しくお知りになりたい方はそちらをご覧いただければいいのだが、簡単に言えば「日本が木造文化の国になったのは、森林が豊富だからでは無い。世界唯一と言ってもいい、地震と共存している国だから」である。

 日本以外の国では、古代から建築と言えば「レンガで建てるもの」であった。レンガは素人でも大量生産が可能で、レゴブロックのようにどんな建物でも造れる。さらに火災にも強い。一方、木造建築は木材を建材に加工する手間も大変だし、なにより火災に弱いという致命的欠点がある。にもかかわらず、日本人は古代から木造建築だけに専念し、中国や朝鮮半島ではあたり前のレンガ建築を採用しなかった。

 なぜなら、レンガ建築は地震にきわめて弱いという欠点があるからだ。だから、われわれ日本人は早い段階でレンガ建築を捨てた。にもかかわらず、そういう歴史を忘れてしまった明治の日本人は、欧米を見て「レンガ建築という便利なものがあるじゃないか」と考え、首都東京に日本初の高層ビルである「凌雲閣(浅草十二階)」や「一丁倫敦(レンガ建築のビル街)」など大量にレンガの建物を造ってしまった。それが灰燼に帰したのが関東大震災である。

 私がもし明治の初期に生きていたら、歴史家として「日本人よ、地震国日本でレンガの建物など造ってはならない」と警告したところだろう。だが、当時の日本には部分部分の専門家である歴史学者はいたが、古代から現代まで日本史を見ている歴史家は残念ながら存在しなかった。では、われわれ日本人はどのような建物を造って地震と共存してきたのか? 京都の三十三間堂(蓮華王院本堂)について述べた、次の文章をお読みいただきたい。

〈このお堂は東に面し、見事な直線で設計され、その長さは一二八メートルもある。そして、この直線は現在でも、いささかも狂っていない。台風や地震などの多くの異変に、七百年を越える歳月を耐えてきたのである。
 どうして、そのような高度な技術が可能だったのだろうか。〉
(『梅干と日本刀―日本人の知恵と独創の歴史』樋口清之著 祥伝社刊)

 この『梅干と日本刀』は、日本史を語る者なら必ず読むべき畢生の名著なのだが、この「高度な技術」とは具体的にはどうするのか。

〈日本人には独特な自然感がある。“自然には逆らわない”という考え方である。現代の建築技術は、まず地盤を固めてから建てる。ところが、動かないように固めてしまうと、何百年という長い歳月の間には必ず陥没が起こったりする。そこで、地面を粘土や砂利など弾力性のある土壌で固める。地震があった場合には、土壌に弾力性を持たせておけば、地震エネルギーが放散されたあとは、土の粒子が元の静止した場所に帰る。ということは、地盤が地震以前の状態に復元するということである。いうならば、波に浮かぶ筏のようなものである。〉
(前掲書より一部要約して引用)

 僭越ながらもっとわかりやすく言えば、日本列島はそもそも地震が頻発する国土で、ギリシャのパルテノンの丘やニューヨークのマンハッタン島のような堅固な地盤はほとんど無い。だから、日本全体を「泥の海」と考えればいいわけだ。「泥の海」だったら建物はまさに筏のような海に浮く「船」であるべきで、地面に固定するなどという考え方は捨てるべきだ、ということになる。

 イメージとして日本製の原発というのは球体でも箱状でもいいのだが、地面に固定されていない泥の海に浮かぶ「ブイ」あるいは「箱舟」だと考えるのだ。内部の制御は無線でAIとリンクして行なう。外部とのリンクは、発電した電力を送る送電線だけ。こうすれば、大地震が起こって送電線が切れても原発自体にはなんの支障も無く、地震が治まればまた送電線をつなぎ直して稼働させればよい。

 また、いま日本が頭を悩ませている「核廃棄物の捨て場」も、そもそも西洋風に「地下室を造って納める」という考え方は捨て、「泥の海」のなかに浮かぶコンテナとして、きわめて頑丈に造ればいい。そうすれば、極端な話、首都圏の近くでも置けるはずだ。もちろん何百年経過しても中身が漏れない頑丈な「金庫」のような形で造る。つまり、そうしてコストを下げた安価できわめて安全な日本製「ブイ型」原発、「コンテナ型」廃棄物倉庫を造れば世界中の国が買いにくるはずで、人類全体のエネルギー問題解決にもつながるし、中国だって買わざるを得ないだろう。仮に日本の技術を盗もうとしても、それならそれでより安全な原発が造られるわけだから、日本の利益にもなる。

 要するに、外部と完全に隔絶、独立し、移動も可能な「トランジスタ原発」を造ればいいということだが、ひょっとして実現不可能だと思う人がいるといけないので念のために述べておく。実現不可能どころか、そうした外部と隔絶した小型移動式原子炉はすでに実用化され、何基も存在している。原子力潜水艦の原子炉である。つまり、あれを軍用目的で無く、もっと大規模に民生目的で造れということだ。

 最後にもう一度言うが、「東京から中国・上海まで境無しの空域」なのである。日本はこの道をいく以外他に無いと私は考えるが、読者のみなさんはどう思われるだろうか?

(新年特別編・終)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2025年1月17・24日号

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