情報量が増えたことにより、判断が問われるシーンも増えている。コラムニストの石原壮一郎氏が考察した。
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2025年が始まりました。現代を生きる私たちにとって、もっとも大切なことは何か。それは「情報に振り回されないこと」ではないでしょうか。ネットの発達やSNSの広がり、スマホの普及などのせいで、私たちは常に情報の洪水に押し流されています。
情報は扱い方をひとつ間違えると、自分を苦しめる毒になりかねません。振り回されて疲弊したり、イライラや怒りの感情を無駄に呼び起こされたりした覚えは、誰しもあるはず。時には他人を傷つける凶器にもなります。新しい年を迎えた今、具体的な事例を例にあげながら、あらためて「情報とのスマートな付き合い方」を考えてみましょう。
今、もっとも大量に種々雑多な情報が錯綜しているのは、タレントの中居正広の「女性トラブル」に関する話題です。リアルにせよSNSなどへの書き込みにせよ、どんなスタンスでどう語るかは、ひじょうに難しいところ。どう語ったところで、やじ馬根性や有名芸能人への妬み嫉みといった「己のみっともない了見」をさらすことになりそうです。
どうすれば「みっともなさ」と無縁でいられるのか。いろんな語り方を想定しつつ、検証してみましょう。
●語り方その1「発表した『お詫び』の中に『なお、示談が成立したことにより、今後の芸能活動についても支障なく続けられることになりました』とあるのはヘンだ。入れるべきではなかった。支障なく続けられるかどうかを決めるのは本人じゃない」
ネットニュースで見た誰かの見解をなぞって、こういう語り方をする人は少なくありません。しかし、言っている側は「いいこと言っているつもり」でも、聞く側としては「どっかで聞いたような話をドヤ顔で語るみっともなさ」を感じてしまいます。
●語り方その2「9000万円(推定)の示談金を払うなんて、いったんどんなことをしたんだろうね」
たしかに気になるところではありますが、疑問を呈しているようでいて、自分の頭の中でエロチックな妄想をふくらませつつ、聞く側にもさまざまな行為を想像させようとしています。そんな狙いが透けて見えるみっともなさと同時に、「とにかく話を下ネタにもっていきたがるみっともない人間性」が露呈してしまうでしょう。
しかも、こういう話をしたがる人は、相手の女性がどこの誰であるかという話も大好物です。そういう話題を持ち出せば、場は盛り上がるでしょう。ただし、語り手は「下衆なやじ馬根性をさらけ出すみっともなさ」を見せつけてしまうことになります。
●語り方その3「じつは前々から、かなり遊びまわっていたらしいよ」
誰かが川に落ちると、この手の「じつは」という話があちこちから出てきます。ここぞとばかりに話すほうも話すほうですが、その手の話をネットで見かけると、したり顔で披露したがる人は少なくありません。本人は得意気ですが、聞く側に「真偽不明の噂に簡単に乗っかってしまうみっともなさ」を漂わせてしまうことになります。
●語り方その4「スポンサーもテレビ局もそっぽむくから、もう終わりじゃないかな」
そんなふうに悲観的な見通しを語るのが好きな人もいます。自分としては客観的に冷静な分析をしているつもりでも、言葉の端々に「華やかに成功している人がどん底に落ちていく様を見てほくそ笑んでいるみっともなさ」が見え隠れせずにはいられません。
●語り方その5「べつにどうでもいいよ。マスコミはこんなことを報じていないで、もっと大事な問題を報じるべきだろ」
ごもっともではあります。「中居? ああ、いたねえ」みたいな言い方をする人も。世俗の話題をバカにして「自分はお前らとは違う」と言いたい気持ちはよくわかりますが、狙いとは裏腹に「その選民意識の安っぽさが見えてしまうみっともなさ」をにじませることになるでしょう。そして、そういう人に「もっと大事な問題って何?」と尋ねても、言葉に詰まるか、政治方面のどうでもいい話を出してくるのがオチです。
こうして見ていくと、どんな語り方をしても、何らかの「みっともなさ」と無縁ではいられないようです。情報とスマートに付き合うのは、なんて難しいのでしょうか。語らなければ大丈夫という問題でもありません。巷にあふれる情報を受け止めて、そのまま自分の中にため込んでいたら、やがてドロドロになって異臭を放ち始めるでしょう。なるべく情報に触れないか、きれいな情報にたくさん触れて浄化するしかありません。
そして、言われる前に自分で言ってしまいますが、人様の語り方についてあれこれ言っているこのコラムは「もっともらしく意味を見出してはいるけど、実は旬の話題をネタにしたかったというみっともない魂胆」が見え見えな点など、多くのみっともなさをはらんでいます。せっかく気持ちよく語っていたのに、水を差された方も多いでしょう。申し訳ありません。
情報のあふれっぷりに警鐘を鳴らすつもりで書いたコラムが、余計な情報の増加に加担してしました。世の中も人生も、ままならないものです。なお、自己批判したことにより、今後の執筆活動についても支障なく続けられることになりました。