2024年パリ五輪男子高飛び込み銀メダリストの玉井陸斗(18)ら多くの五輪選手を育て、自身もメルボルン、ローマ、東京とオリンピックに3度出場した日本飛び込み界のレジェンド・馬淵かの子さんが肺炎のため亡くなった。86歳だった。
現役引退後も長くコーチとして競技に携わり、夫で元五輪飛び込み選手だった馬淵良さん(故人)と立ち上げたJSS宝塚スイミングスクールでジュニアを指導していた。小学1年生で体験教室に来た玉井の才能を見出し、“69歳差の師弟”であった。
パリ五輪に向かう玉井には「これからなんべんも五輪に出るやろうけど、私にはあんまり時間がないんよ。今回メダルを獲ってもらわんと、あと4年いわれたら困るで……」と奮起を促したという。玉井はその言葉に応えて日本飛び込み界史上初のメダルを手にした。玉井のメダル獲得直後に馬淵さんに話を聞くと、こう話していた。
「(馬淵)祟英コーチの努力が報われたなと、感激して涙が出ましたよ。玉井君は精一杯演技をするだけやけど、祟英コーチの苦労を見てきたからね。そっちのほうが嬉しかった」
そう真っ先にコーチを労った馬淵さん。取材当時はローカル大会での審判員も務めており、筆者も様々な競技のベテラン審判員の証言を集めた拙著『審判はつらいよ』の取材に応じてもらっていた。その馬淵さんは、パリ五輪での玉井が5本目を失敗して一度は4位に落ちながら、最終の6本目をノースプラッシュで沈め、99.00の高得点で銀メダルを手にしたことについてはこう続けていた。
「(5本目に失敗した時は)びっくりして心臓が止まりましたわ。血圧が上がって、もうアカンと放心状態になりました。玉井君には『頑張ったらアカンで』とずっと言ってたんです。あの種目は玉井君も自信があるから“金メダルを決めてやろう”と思ったんやと思う。あの子も若いわ。帰ってきたら“あんた、頑張りすぎたな”と頭をコツンと叩いてやろうかなと思っています(笑)」
自身もメダルが期待された1964年の東京五輪では大声援のプレッシャーに負けて7位入賞で終わったが、その経験を生かして大きな大会では“頑張り過ぎないように”と玉井ら教え子に指導してきた。
「でも、金メダルを獲れなかったほうが玉井君にとってよかったのかもしれない。こういう失敗をしたことが、今後に生きる。そういうことがわかる子やからね。いい薬になったと思う。金メダルを獲ると守りに入るようになる。まだ17歳と若いし、もっともっと上手になる。今でも世界で1番の技を持っているし、美しさでは中国の選手でもかなわないからね。4年後の五輪は私が年齢的に心配ですが、期待しています」
笑顔でそう語っていた馬淵さんだが、2028年のロス五輪で玉井が表彰台の一番高いところに立つ姿を見ることはできなかった。謹んでご冥福をお祈りしたい。
◆取材・文/鵜飼克郎(ジャーナリスト)