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雅子さま、皇后になられて初めて迎える阪神・淡路大震災追悼式典に出席 “水仙の花を手向けた”美智子さまから受け継がれる被災地訪問への思い

NEWSポストセブン 2025年1月17日 11時15分

 平成の時代に上皇ご夫妻が確立され、現在の皇室にとって重要な公務のひとつとなった被災地訪問。今年、30年前の震災で失われた命を弔い、復興を祈られるのは天皇皇后両陛下だ。大役を果たすため、雅子さまはご自身のご体調管理に余念がないようで──。

 1月の皇室は忙しい。新年祝賀の儀や新年一般参賀など、新年恒例の皇室行事が続く。10日には皇居・宮殿で研究者から講義を受けられる講書始の儀が行われた。

「新年行事が立て込み、翌週には泊まりがけの地方公務も控えるタイミングでのご出席でしたが、雅子さまは穏やかな笑みを浮かべられ、自信がにじみ出ているように感じられました。それだけうまく体調管理をなさっているということでしょう」(宮内庁関係者)

 1月17日で阪神・淡路大震災から30年を迎える。その犠牲者を悼む「1.17のつどい ─阪神・淡路大震災30年追悼式典─」に出席するために、天皇皇后両陛下は16、17日の日程で兵庫県神戸市を訪問される運びとなった。1日目はホテルで復興状況などの説明を受けられた後、兵庫県の歴史を展示した「兵庫津ミュージアム」を訪問され、2日目は追悼式典に出席された後、「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」を視察される。

「この日程は、上皇ご夫妻が発災から10年後の2005年に、追悼式典に出席されたときと大きく異なります。その際は2泊3日で、移動日の初日と最終日には2か所、移動のない2日目は4か所の施設を訪問されました。

 当時すでに70才を超えられていた上皇ご夫妻の日程と比較しても、今回はかなりゆとりを持ったスケジュールになっています。予定を詰め込みすぎて雅子さまにご負担がかかってはいけないという配慮だとみられます」(前出・宮内庁関係者)

 毎年恒例の皇室行事の日程さえ変更するという大胆な措置も取られたようだ。

「これまでは例年、1月15日前後に行われていた『歌会始の儀』が、今年は22日の開催となりました。例年通りの日程だと、歌会始の儀の直後に神戸を訪問されることになり、体調管理が困難になる。どちらも皇后として外すことのできない公務です。神戸訪問の日程を動かすことはできないので、次善の策として歌会始の儀が延期されたのでしょう。

 また、感染症にかかってはいけないと、お住まいのなかでもマスクをつけられることがあるそうです。雅子さまにとって神戸は、万全に体調を整え、なんとしてでも行かねばならない場所なのです」(皇室記者)

 雅子さまが被災地となった神戸を初めて訪問されたのは1995年2月のこと。翌3月にも神戸、尼崎、宝塚各市での合同慰霊祭に出席され、さらに宝塚市と淡路島の避難所を訪れた。

「すっかり変わり果てた街の様子を目の当たりにし、雅子さまは沈痛な面持ちを浮かべられました。避難所で被災した少女から似顔絵をもらった雅子さまが、後にお礼の手紙を送られたという交流も生まれました」(前出・皇室記者)

 翌1996年の追悼式典にも出席された雅子さまだが、その後次第に体調を崩され、出席される公務も限定的になっていく。そんななか、2010年に行われた追悼式典が、雅子さまにとって宿泊を伴う2年ぶりの公務となった。

「ぎりぎりまで調整が重ねられ、雅子さまの出席が発表されたのは、出発の前日でした。式典では、小学生たちの合唱に涙を拭われた場面もありました。犠牲者や遺族へのお気持ちの強さが、ご自身の体調の不安を上回ったのでしょう。今回は皇后になられてから初めて迎える追悼式典ですので、ご出席にかける思いもより強いのではないでしょうか」(前出・皇室記者)

バスの車内で立ち上がって激励

 困難な状況にある人の元へ駆けつけ、思いを同じくする──これは、美智子さまから受け継がれたものだ。

「国民と直接交流する被災地訪問は、皇后にとって最も重要な公務のひとつです。美智子さまも何度も神戸に足を運ばれています」(皇室ジャーナリスト)

 最初のご訪問は1995年1月末のこと。火事で焼け野原となった菅原市場(長田区)を訪問された美智子さまは、がれきの上に、皇居に咲いていた17本の水仙でお作りになった花束を手向けられた。海外では希望の象徴といわれる水仙は、被災者の心に希望の光をともした。花にまつわるエピソードはほかにもある。

「2005年の追悼式典で美智子さまは、東灘区のがれきの山の上に一面の花を咲かせて『復興のシンボルフラワー』と呼ばれたひまわりの種を持ち帰られました。その種は皇居でも芽を出し、大きく花を開かせました。

 その話を美智子さまから聞かれていたのでしょう、2010年に神戸を訪問された雅子さまは、美智子さまに種を渡した女性に『大事に育てさせてもらっています』とお礼を述べられたそうです。美智子さまと雅子さまは、被災地訪問への思いや経験をも共有されているのです」(前出・皇室記者)

 昨年12月、能登半島地震の被災地を訪問された雅子さまの振る舞いが、美智子さまのなさりようを彷彿とさせた場面もあった。

「雅子さまが、移動のバスの車内で、お姿がよく見えるようにと立ち上がって窓の外に手を振られたのです。

 バスといえば1995年、美智子さまは菅原市場を離れる際に乗り込んだバスの車内で立ち上がり、窓の外に向けて両手を握りしめ、体のわきで力強く2度おろすしぐさを何度も繰り返されたことがありました。これは手話で『頑張ってください』という意味で、美智子さまが窓越しに送ったエールでした。雅子さまはそのときの一幕を思い出されたのかもしれません。このような振る舞いや国民と目線を合わせた対話は、美智子さまが『平成流』として確立されたものです」(前出・皇室記者)

 令和流の被災地訪問はこれからも続いていく。

「たしかにスケジュールにはゆとりがあり、懇談の機会は多くはありません。しかし、ご自身の体調が万全ではないなか、雅子さまが来てくださったというだけで、国民は勇気づけられる。雅子さまもそうした思いを肌で感じられているはずです。日程はこなせずとも、ご自身らしくあればよいと自信を深められているのではないでしょうか。

 昨年10月に骨折という大けがを負った美智子さまは、いまだ快復の途上にあります。美智子さまの心を引き継ぎ、なんとしても皇后としての務めを果たしたいという強いお気持ちが、雅子さまの原動力なのでしょう」(前出・皇室記者)

 平成から令和へと時代は変わっても、国民を思うお気持ちに変わりはない。

※女性セブン2025年1月30日号

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