ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その17」をお届けする(第1442回)。
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シベリア出兵、つまり「ロシア革命潰しを目的とした第二次日露戦争」を断行したのは、陸軍大将でもある首相寺内正毅であった。もちろん、その背後にはしぶとく生き残っていた「陸軍の法王」山県有朋の強い支持があった。しかし、じつは出兵が始まってしばらくしてから寺内内閣は崩壊し、別の人物が内閣を率いることになった。軍人では無く政党人で、「平民宰相(爵位を持っていない総理大臣)」ともてはやされた原敬である。どうしてそのようなことになったのかと言えば、「米騒動」が起こったからである。
米騒動という言葉自体は、明治時代からあった。一八八九年(明治22)と言えば、その紀元節(2月11日。現在の建国記念の日)に大日本帝国憲法が発布された年だが、まれにみる凶作の年でもあった。注意すべきは、明治から大正そして昭和にかけてコメは投機の対象となる商品で、専売制でも無く公定価格も無かったことだ。国民作家司馬遼太郎の祖父が米相場に血道を上げていたことは、前にも述べた。
この年は秋になってもコメはまったく市場に出回らず、米不足となり翌一八九〇年(明治23)になると米価は急騰した。要するに、庶民が買える価格では無くなった。そこで、一月にまず富山県富山市で暴動が起こり、それが新潟県に波及した。とくに佐渡相川で鉱夫らが起こした暴動は数千人規模で、鎮圧のため軍隊が出動した。しかし、ここで述べるのは寺内内閣の治世下一九一八年(大正7)に起こった最大規模のもので、前後の同種のものと区別するため「大米騒動」と呼ばれたものである。これも最初の暴動は富山県で起こった。
ところで、日本人はコメの歴史やイネの常識を知っているようで知らない。この『逆説の日本史』シリーズの愛読者なら頭に入っているとは思うが、近現代編から読み始めた読者もいるかもしれないので、あえてまとめておこう。まず注目しなければいけないのは、コメつまりイネは熱帯原産の「寒さにきわめて弱い」植物だということである。だから日本列島においても、昔「西国」と呼ばれた近畿、中国、四国、九州地方でしか栽培されていなかった。
後に「東国」と呼ばれた関東、東北地方は「狩猟民族」と言える縄文人の勢力範囲であった。これに対して西国の主である天皇家は「弥生王」とも呼ぶべき存在で、その祭祀儀礼も大嘗祭や新嘗祭など稲作に関するものだ。言わば、日本列島は平安時代の九世紀初頭までは西国の稲作文化(弥生文化)と東国の狩猟文化(縄文文化)が併存していた国なのだ。これを決定的に変えたのが、平安京を開いた桓武天皇であった。
桓武天皇は東国をも大和朝廷の領土に加えようと征夷大将軍という役職を新設し、任命された坂上田村麻呂は東国のエミシに勝って現地を占領した。彼らの頭領はアテルイと呼ばれていたからあきらかに大和民族とは違う民族だったが、これ以降彼らは「安倍」や「清原」などと改名させられ「俘囚」などという屈辱的な呼ばれ方をされたうえで、弥生文化に取り込まれた。具体的に言えば、稲作に従事させられたのである。
狩猟文化を支えていた森林は次々と開墾され、田畑になった。大和朝廷は、コメを「租(もっとも基本的な税)」とするコメ政権だ。だから稲作を強制したのである。ちなみに、エミシの一部は北海道に逃れ蝦夷つまりアイヌ民族になったと考えられるのだが、大和朝廷がそれを深追いしなかったのには理由がある。もうおわかりだろう、熱帯原産のイネは東北までならかろうじて栽培できるが、寒冷な気候の北海道ではそれが不可能だったからである。コメ政権にとっては無用の地なのである。
しかし、いくら東国、もっと具体的に言えば東北や上越や北陸で稲作ができると言っても、それは夏の一時の暑さを利用したバクチのようなもので、ちょっとでも冷夏になれば凶作になる恐れがある。この時点で東国の民は西国に対して大きなハンデを背負わされたのである。稲作競争においては温暖な西国のほうが絶対有利だからだ。コメ万能の世界では「東北は貧しい」ということにもなる。西国の「官軍」が東北を攻めた戊辰戦争でも、官軍の連中が「白河以北一山百文」と嘲笑したのも、こうした意識が背景にある。
収穫量だけの話では無い、コメ自体の味も西国のほうがはるかに上だった。「早生と晩生」という言葉をご存じだろうか? 筆者は早稲田大学の出身だが、ミカンやリンゴでは無くイネの場合は「早稲」と書く。栽培期間が短く早く収穫できるイネの品種を総称してこう呼ぶ。北陸、東北地方のイネはすべてと言っていいほど早稲であった。西国ではほとんど心配いらないが、東国ではダラダラ栽培していると冷害に襲われる危険性があるからだ。
ところが、一昔前までの農業では「早生は不味い」というのが常識であった。栽培期間が長く地中の栄養分をたっぷり取り入れることのできる晩生にくらべて早生が不味いのは理の当然だ。晩生の典型的な作物である朝鮮人参は、何年もかけて地中の養分を吸い上げるではないか。つまり米騒動が始まった北陸の富山県でも波及した新潟県でも栽培されているのは早稲で、言わば不味いコメであったということなのだ。
当時コメは自由価格だから、不味いコメは当然ながら安い。つまり、米騒動はひょっとしたら日本で一番コメが安かったかもしれない富山や新潟で起こったということだ。だから問題は深刻なのである。現在、東北や上越や北陸はコメが豊富に穫れる地域であって「米どころ」などという言葉もある。新潟県は典型的な「米どころ」で、味がよいと評判のコシヒカリの主産地でもある。コメの本場と言えば西国の九州、四国では無く、東国のそれも関東以北の東北、上越、北陸地方だが、それは現代の常識であって大正時代はまったく反対だったということをまず頭に入れておく必要がある。
政府の無策が招いた「大米騒動」
ひょっとして、新しい読者はなぜ「反対」になったのかと不思議に思うかもしれない。たしかに、これはきわめて異常なことである。なぜそうなったかについても以前書いたことがあるのだが、その内容があまりに広まっていないと思われるのでもう一度書いておこう。この奇跡的な出来事が起こったのは、並河成資という天才的な農業技術者がいたからである。どんな人物なのか?
〈並河成資 なみかわ-しげすけ 1897~1937
昭和時代前期の品種改良家。
明治30年8月16日生まれ。新潟県農事試験場の技師として、技手の鉢蝋清香の協力を得て、昭和6年極早生・多収・良質の水稲品種「農林1号」を育成した。農林省農事試験場中国小麦試験地にうつり、小麦の育種研究にあたるが、昭和12年10月14日自殺。41歳。京都出身。東京帝大卒。〉
(『日本人名大辞典』講談社刊)
手前味噌だが、いま私が述べた知識があってこそ並河という男がどんなにすごい人物かわかる。彼の開発したイネ(水稲農林1号)は、「極早生(普通の早稲より栽培時間が短くて済む)」なのに「多収」で「良質」なのである。これ以前にそんなものを作ると言ったら、頭がおかしいと思われただろう。そんなことは常識的に考えて絶対にあり得ない。にもかかわらず、並河はそれを成功させた。まさに天才ではないか。
そして、じつは「水稲農林1号」には、もうひとつイネの常識を完全に覆したことがある。それは「寒さに強い」ということである。思い出してほしい。イネはそもそも熱帯原産の植物なのである。だから、夏は一時的に酷暑に見舞われる東北地方ならば栽培可能だが、北海道では無理だった。だから、朝廷も武士の政権である幕府もコメ政権であるがゆえに「蝦夷地」を領有しようとはしなかった。
明治になって維新政府が北海道開拓に乗り出したのは、放置しておけばロシアに奪われる危険性があったからで、コメを栽培しようとしたわけでは無い。そもそも当時は北海道で栽培できるイネなど無かった。だが、現在は北海道の一部でもコメが穫れるようになった。おわかりだろう、コシヒカリなどと同じく「水稲農林1号の子孫」だからこそ、それが可能になったのだ。
このことを再び書いたのは、並河成資の功績を知らない人があまりにも多いからだ。江戸時代、東北地方屈指の大藩である南部藩では冷害による飢饉があたり前だった。元はと言えば、大和朝廷が東北地方には不向きな稲作を強制したせいなのだが、その結果多くの餓死者を出した。
これ自体はフィクションだが、小説『壬生義士伝』(浅田次郎著)に登場する「新選組で一番強かった男」吉村貫一郎は実在の人物で、彼の生まれた南部がいかに貧しく飢饉に悩まされていたか活写されている。嫌な話だが、江戸時代の日本で「餓死がもっとも多い国」は南部藩だったのである。それを変えたのが並河だ。
南国ながら火山灰大地でコメがまったく穫れず餓死者の多かった薩摩に、琉球からカライモ(いわゆるサツマイモ)を持ってきた船乗り前田利右衛門は「カライモオンジョ」と親しまれ神様として神社に祀られている。薩摩から餓死者を一掃したからである。並河は南部藩も含めた「東国」から餓死者を一掃した。時代が違うとは言え、北陸、東北の人々はあまりにも「冷たい」と思うのは私だけだろうか。「水稲農林1号」はそれまでのイネとはまったく違うもので、私は別の品種名をつけたほうがいいとすら思っている。
さて、話を一九一八年(大正7)に起こった「大米騒動」に戻そう。この騒動は、凶作が引き金では無かった、じつは、寺内内閣がシベリア出兵に踏み切ったことで当然「兵糧米」の需要が高まると感じた大地主や相場師が、「買占め、売り惜しみ」に走ったことがきっかけだった。
そもそも日本は、第一次世界大戦の混乱によって、とくに工業が発展したことはすでに述べた。繰り返せば、機械製品に強いイギリス、化学製品に強いドイツがともに交戦国となり、世界の需要を賄えなくなった。そこで、品質は劣るものの安価な日本製品が輸出商品としてもてはやされるようになり、当然ながら生産量も増えた。それは、これまで地方で第一次産業である農業に従事していた若者が、都会の工場で第二次産業である工業に従事するようになったということだ。
その結果、日本の経済自体は発展したが、農業従事者が減ったことによってコメの生産が需要を満たせなくなった。そうしたところにシベリア出兵が発表されたので、コメが買い占められ米価の急騰を招いたのである。こうした場合、庶民を救うためには外国産米の緊急輸入という手があり、それを円滑に進めるためにはコメの輸入関税を一時的に撤廃すればいいのだが、寺内内閣はそうした対策を一切取らなかった。それは「持てる者」つまり大地主層の不利益になり、その支持を失うことを怖れたからだと言われている。
米価の値上がりはどのような経過をたどったのだろうか?
〈(寺内内閣は)七月にはシベリア出兵方針を固めて、買占めに決定的な拍車をかけた。このため神戸市を例にとれば、一升当り七月十六日三十六銭八厘、八月一日四十銭七厘、七日五十五銭三厘、八日六十銭八厘と、八月に入って一週間のうちに五割も値上りし、民衆の不安はその極に達した。政友会はじめ諸政党は、まったく傍観していた。〉
(『国史大辞典』吉川弘文館刊 「米騒動」の項より。項目執筆者松尾尊ヨシ[※ヨシの時は公に儿])
寺内内閣は景気をよくするためかインフレ政策も進めていたが、これも民衆の不安に拍車をかけた。インフレはデフレの逆で、給料は増えても貨幣価値は低下するからである。要するに、コメは庶民にとって「高嶺の花」になってしまった。そうしたなか、日本歴史始まって以来のことだが、女性が「一揆」を起こした。
〈七月二十三日富山県魚津町の漁民妻女が、米の移出を差し止めようと海岸に集合して以来、付近に不穏な気分がひろがり、八月三日になると西水橋町の漁民が米屋や有力者に対し、移出禁止・安売りの哀願の実際行動に出た(越中女一揆・女房一揆)。同様な運動は富山湾沿岸にひろがり、連日の中央・地方諸新聞の報道が、騒動の全国化をもたらした。〉
(引用前掲書)
この行動は、コメを略奪したのでは無く県外にコメが運ばれることを阻止したわけで、いまなら自分の目の前にあるコメに手が届くのに、いったん商品として県外に出されてしまうと高嶺の花になってしまう、ということだったのだが、これが全国に報道されると各地で呼応する動きが広まった。
寺内内閣はあわてて軍隊まで動員し沈静化を試みたが、庶民の不満の炎は一向に収まらなかった。これでは内閣はもたない。
(第1443回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『真・日本の歴史』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2025年1月31日号