ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その18」をお届けする(第1443回)。
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「女房一揆」として報じられた富山の米騒動は、あっという間に全国に波及した。江戸時代と違い、新聞が事件を大々的に報じたからである。一九一八年(大正7)八月には名古屋市で鶴舞公園に数万人の大群衆が決起集会を開き、米屋をめざして移動し警官隊と衝突した。同じ夜に京都市では暴徒数百人が米屋に次々と押しかけ、「コメを安く売れ」と強要した。また、この動きは大阪市、神戸市にも広がり、さらに東京市および九州にも波及した。
これらは都市部の暴動だったが、それ以降は農村部にも広がり、とくに山口県や北九州の炭鉱労働者が主体となった暴動につながった。寺内内閣は軍隊を派遣し、最後まで抵抗する者は射殺することによってようやく鎮圧した。検挙者は約二万五千人、とくに被差別部落民が狙い撃ちされたかのように検挙者数が多かった。裁判で有罪となり死刑を科せられた二名も、被差別部落の出身者だった。また、当時日本最大の総合商社だった神戸の鈴木商店は、『大阪朝日新聞』が「買占めの元凶」と報じたことから暴徒の焼き打ちにあった。この報道は捏造であったようだが、あおりを食って全国中等学校優勝野球大会(甲子園)が中止に追い込まれた。
この米騒動の意義について、ある百科事典では次のように総括している。
〈米騒動は独占資本・寄生地主階級と天皇制支配体制に対する労働者・農民の反抗であり、それを小ブルジョア層が支援した。米騒動はまたシベリア出兵に対する無言の批判であった。ほとんど沈黙を守る政友、憲政、国民の3党に代わって全国の新聞が言論の自由擁護と倒閣の論陣を張り、すでに元老の支持を失った寺内内閣は9月21日総辞職した。官僚支配では民心の安定は不可能とみた元老は政友会総裁原敬を首相に指名した。〉
(『世界大百科事典』平凡社刊 「米騒動」より抜粋 項目執筆者松尾尊ヨシ[※ヨシの時は公に儿])
典型的な左翼史観の結論と言っていいだろう。もちろん、左翼であろうと右翼であろうと正確なら問題無いのだが、この総括には多くの認識の誤りがある。まず米騒動を「天皇制支配体制に対する労働者・農民の反抗」ととらえていることだ。要するに、「そう思いたい」ということなのだろう。だが、もしこれが事実なら一九四五年(昭和20)に日本が惨憺たる敗戦を喫したとき、なぜ革命が起こらなかったのか?
あくまで客観的事実を述べれば、あのとき日本は敗戦直前まで天皇の名の下に多くの日本人を戦場に送って戦死させ、国民には「米騒動」どころでは無い厳しい耐乏生活を強いてきた。だが、八月十五日に昭和天皇がポツダム宣言受諾をラジオ放送したあと、多くの国民は皇居前広場に馳せ参じ「戦いに勝てず申し訳ありませんでした」と土下座したではないか。
一方、この際武力で天皇家を滅ぼそう、などという動きはまったく無かった。左翼学者は、日本人がそのときに皇居前広場でしたことを「日本の後進性の象徴」つまり「恥」と見るのだろうが、「恥」であれ「誇り」であれ客観的事実だけ言えば「国民は惨憺たる敗戦においても天皇を支持していた」のであり、そうした事実から目を背け「自分の好み」を優先するようでは歴史学者とは言えない。
「シベリア出兵に対する無言の批判」というのもそうだ。これまで述べてきたように、シベリア出兵とは日本国民にとって「バイカル博士の夢」を叶える絶好のチャンスだったから、そのことで米価が急騰し生活が苦しくなったことには不満を覚えても、出兵自体にはむしろ大賛成であったのだ。
ここでは「無言の批判」という言葉に注目願いたい。なぜ「無言」なのか。それは、米騒動のスローガンで「シベリア出兵反対」が叫ばれた事実は無い、ということだ。もしそうなら、たとえば「〇月〇日の抗議集会でそれを明記したビラが配られた」などといった具体的事実があれば、当然それが提示されただろう。つまり「無言」というのは、じつはこの項目の執筆者である松尾尊ヨシ[※ヨシの時は公に儿]京都大学名誉教授の「思い込み」であり、そうあって欲しかったという「願望」なのである。
実際はまったく違って、昭和二十年以前の日本人は日本共産党員など少数の例外を除き、「戦争反対」など夢にも思っていなかった。なぜなら、大日本帝国において「十万の英霊と二十億の国帑」を費やして獲得した利権は、「彼らの死を無駄にしないために」どんな手段を使っても守らなければいけないからだ。
たとえば、現在四十歳以上の日本人ならわかるだろう、二十年くらい前を思い出して欲しい。いまはあたり前のように語られる「憲法改正」という言葉を使うと、「改正では無い。改悪だ」「そんなことを考える奴は右翼(=悪人)だ」などと、さんざん罵倒された。しかし、これも客観的事実だけを考えるならば、日本の周辺には侵略を当然とする国家が複数存在する。
ウクライナのようにならないためには、軍事同盟と自前の軍事力が絶対に必要である。しかしながら、現行憲法は「軍隊の保持」も「交戦権」も否定しているのだから国民を守れない。だから改正するのは当然だ、ということになるはずである。しかし、なぜそれを言うと罵詈雑言を浴びせられたのか? それは、日本人の心のなかに「現行憲法は、第二次世界大戦における三百万人もの犠牲者の尊い死によって成立したものである。だから絶対に変えてはならない」という信仰があるからだ。
この信仰は古代から存在するものであり、それが戦前においては「十万の英霊の死を絶対に無駄にしてはならない」だったのだ。それを具体的に実行するためには、隙あらばユーラシア大陸に進出し日本の領土を広げることである。だから日本はシベリア出兵を実行したし、最終的には満洲国を建国した。当然、ロシアや中国は抵抗するから、彼らと戦うことになる。戦争、それは昭和二十年以前は正義なのである。
おわかりだろう、「シベリア出兵に対する無言の批判」などあり得ないのである。前にも述べたように、戦前にも日中和平を唱える人はいたが、それが中国との妥協を示すことになると「十万の英霊の死を無駄にする極悪人」にされてしまう。ちょうど二十年ぐらい前に「憲法改正」を声高に叫ぶと「極悪人」にされてしまったように、だ。
もし日本の一般民衆の間に「天皇支配に対する反感」あるいは「戦争遂行に対する拒否感」があったとすれば(おそらく松尾京大名誉教授はそう思いたかったのだろうが)、この先日本の大陸侵略政策にそれほど積極的では無かった原敬首相および犬養毅首相がともに暗殺される一方、陸軍が主導した満洲国建国が一般民衆に大喝采を浴びたことと矛盾するではないか。犬養首相は現役の軍人に射殺された。世界中のあらゆる軍法では犯人は死刑になるはずだが、前にも述べたように膨大な助命嘆願書が一般民衆から寄せられ、犯人は死刑を免れた。それどころか、恩赦により数年で釈放された。それが戦前の日本の実相だ。
「完全な政党内閣」の誕生
この事態を軽蔑するか、それとも誇りに思うか、それはご本人の自由だが、事実は事実として客観的に見なければならない。あたり前の話だが、日本の左翼歴史学者はこういうときに自分のイデオロギーや思い込みを挟み込み、事実を捻じ曲げる。読者の方々は用心されたい。ちなみに左翼学者がなぜそうなってしまったのかは、すでに『逆説の日本史 第二十六巻 明治激闘編』に詳しく述べておいたのでそちらを参照していただきたいが、では左翼とまでは言えない普通の歴史学者なら信用できるのか?
残念ながら、そうでは無いということを読者の方々はご存じだろう。そもそも、歴史の記述を彼らに全面的に任せてよいなら、私ごときが三十年以上もかけてこの『逆説の日本史』を書く必要は無かったのである。それだけの年数をかけても、彼らの史料絶対主義や極端に狭い視野は解消されず、私の(歴史学者では無い)歴史家として歴史の全体像から分析していくという手法も、決して認めようとしない。
私の方法論を全面的に採用せよと言っているのでは無い。そういうやり方もあると認めよということなのだが、彼らは自分たちだけが歴史の専門家であるという傲慢な思い込みがあって、態度を改めようともしない。私もとうとう堪忍袋の緒を切って、『逆説の日本史』の世界に入りたいがあまりにも膨大過ぎて入り口がわからないという読者のために、『真・日本の歴史』(幻冬舎刊)という本を書いた。
これは『逆説の日本史』の入門書であると同時に、歴史学界へのケンカ状でもある。ところが、その本になんとバリバリの歴史学者である本郷和人東京大学史料編纂所教授と磯田道史国際日本文化研究センター教授から、ご推薦をいただくことができた。すでに読売、産経、日経などの各紙の書籍広告のなかで発表されているが、本郷教授からは「真の歴史家の仕事を堪能せよ」、そして磯田教授からは「なぜ日本と世界はこうなっているのか? 本書はそれに答える好著です」とお褒めの言葉をいただいている。
これがどんなに大変なことか、おわかりだろうか。お二人とも歴史学界に身を置く現役の歴史学者である。歴史学界を批判した本を推薦することは、大変な勇気を必要とする。それでもお二人は推薦してくれた。ここで、お二人には伏して感謝の意を述べたい。正直涙が出るほど嬉しかった。三十年やっていれば、よいこともあるなと思った。せっかくの機会だから、みなさんの周りにも私の本の悪口を言いまくっている歴史学者あるいは歴史学者シンパがいるかもしれないが、そうでは無いよと諭して(笑)いただければ幸いである。
気を取り直して本題に戻ろう。米騒動はいかにして解決されたのか?
寺内内閣は暴動が首都東京市に及んだ八月、あわてて天皇からの恩賜金という名目で三百万円を府県に分配した。さらに一千万円を米価対策に投入し、コメの廉売を奨励した。これで騒動自体は収まり、当然ながら革命などには発展しなかったのだが、民衆を軍隊で弾圧し殺傷までした寺内首相は民衆の支持を失い、各地で新聞が「寺内首相退陣」を求めるキャンペーンを張った。
こうしたなか、元老山県有朋も寺内を見限り、元老西園寺公望に後継首相を依頼した。桂園時代と同じ、「困ったときの西園寺」である。政党嫌いの陸軍閥は、陸軍出身の内閣になにか問題があった場合「つなぎ」として西園寺に首相を任せてきたのだが、かねてから日本に欧米並みの政党内閣を成立させることを悲願としている西園寺は、それを実現させる絶好のチャンスと見た。
いま自分が首相就任を拒否すれば、政党嫌いの山県も民心を鎮めるために政党内閣成立に協力せざるを得ない、と見たからである。その結果、九月二十一日に寺内内閣の総辞職を受けて当時衆議院の第一党政友会の総裁でもあった原敬を元老たちは一致して首相に推薦し、九月二十九日には原内閣が成立した。これまで日本の憲政史上政党内閣は存在したが、衆議院の第一党の総裁が首相になるという完全な政党内閣はこれが初めてのことであった。
しかも、原はそれまですべての首相が持っていた爵位を持っておらず、華族では無く平民であったため、「平民宰相」と呼ばれた。しかも初の「賊軍出身」の首相であった。彼の経歴を簡単に紹介すると、
〈原敬
はら-たかし 1856-1921
明治-大正時代の政治家。
安政3年2月9日生まれ。井上馨(かおる)、陸奥宗光(むつ-むねみつ)にみとめられて外務次官、駐朝鮮公使。明治31年大阪毎日新聞社長となる。33年政友会結成に参画し、のち総裁。35年衆議院議員(当選8回)。大正7年内閣を組織、陸・海・外務の3大臣以外の閣僚に政友会党員をあてた。衆議院に議席をもつ最初の首相で、平民宰相とよばれる。大正10年11月4日東京駅頭で中岡艮一(こんいち)に刺殺された。66歳。陸奥盛岡出身。司法省法学校中退。幼名は健次郎。号は一山など。
【格言など】墓標は位階勲等を書かず、単に「原敬墓」と銘記すること(遺書)〉
(『日本人名大辞典』講談社刊)
経歴で注目していただきたいのは、最後の「号」である。前回紹介したが、これは戊辰戦争のとき官軍が東北などろくな土地は無いと嘲った言葉「白河以北一山百文」から採ったものなのである。
(第1444回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『真・日本の歴史』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2025年2月7日号