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《日本で最初の大規模ニュータウン》大阪の「千里ニュータウン」が限界化しない理由 1970年万博をきっかけに開業した鉄道

NEWSポストセブン 2025年1月31日 7時15分

 4月13日から始まる大阪・関西万博の玄関口となる大阪市高速電気軌道(大阪メトロ)中央線「夢洲駅」(ゆめしまえき)が1月19日に開業した。前回、1970年の大阪万博のときにも、新しく鉄道が敷かれ新駅が開業していた。日本で最初の大規模ニュータウン「千里ニュータウン」と1970年2月24日に江坂-万国博中央口間が開業した北大阪急行電鉄の成り立ちと関係性について、ライターの小川裕夫氏が上梓した「鉄道がつなぐ昭和100年史」(ビジネス社)から抜粋、加筆してお届けする。

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 第2次世界大戦後、1945年から1954年頃までの日本では戦災復興によって経済が急速に回復を遂げ、その影響から大都市では労働力不足が発生していました。主に町工場や個人商店では人手が足りず、なんとか労働力を確保しようと躍起になっていました。

 一方、地方の農村部では所有する農地を長男へ相続させるのが一般的だったので、次男や三男は家業を継ぐことができず、必然的に新しい仕事を探さなければなりませんでした。

 農業が主要産業である当時の地方都市において、新しい仕事を見つけることは至難の業 です。当時の地方都市では中学校卒業後に高校へと進学する選択肢はほとんどなく、多くの少年・少女は卒業と同時に教員に言われるがまま集団就職列車に乗って都会へと旅立っていきました。

 地方から出てきた少年・少女たちは、めったに手に入らない貴重な人材「金の卵」と呼ばれ1964年には流行語となり、もてはやされますが、実態は体のいい丁稚奉公でした。駅に到着したその日から、金の卵たちは有無を言わさず商店や町工場に住み込みで働かされます。金の卵たちに休む暇は与えられず、就業時間外でも家事や育児を強制させられました。

 そんな金の卵たちも働き始めてから数年が経過すると、結婚して家庭を持つ年頃になります。結婚後も職場に住み込みで働くわけにはいかず、金の卵たちは自分の家を持つようになるのです。

 集団就職列車で東京・大阪にやってきた金の卵たちの数は膨大で、とても住宅は足りません。これが戦災復興から高度経済成長の時期に起きた現象です。

 こうして大都市近郊には、大規模ニュータウンが続々と計画されていきました。日本初のニュータウンと言われる千里ニュータウンは、大阪府が1958年に計画を策定したことから開発が始まります。

 千里ニュータウンにつづくように、東京都・神奈川県でも多摩ニュータウンの計画が浮 上します。行政主導で大規模なニュータウンが造成されたことで、数字上の戸数は増えました。戸数が増えれば住宅難は解消するはずですが、現実はそう簡単な話ではありません。

 なぜなら、ニュータウン住民の多くは勤め人だったからです。会社まで通勤できなければ居住(移住)できません。職場から遠い場所に団地を造成しても、交通手段がなければ意味がないのです。

 1962年9月に第一期入居が始まった千里ニュータウンは、大阪府吹田市・豊中市の広大な丘陵地に築かれました。ニュータウン以前の千里丘陵は都市化とは無縁の大地だったので、当然ながら公共交通は整備されていません。行政は、そこに万人もの人工都市を出現させたのです。

 高度経済成長期に計画がスタートした多くのニュータウンは、約半世紀を経て住民が高齢化しました。一部のニュータウンは「オールドタウン」と皮肉をこめて呼ばれるようになりました。

 最近は高齢化や人口減少なども顕著で、ニュータウンに以前のような活気は見られません。そうしたニュータウンは「限界集落」になぞらえて、「限界ニュータウン」と揶揄されるようになっています。

万博のおかげで開通した北大阪急行

 千里ニュータウンは限界ニュータウン化していませんが、以前に比べれば活気が乏しくなっているのは事実です。それでも多くのニュータウンが衰退している中、千里ニュータウンが今も10万2673人の人口を抱え(2024年、吹田市・豊中市千里ニュータウン連絡会議「千里ニュータウンの資料集」調べ)、ある程度の活気を保っているのは、北大阪急行電鉄によって大阪市中心部へのアクセスが抜群だからです。

 しかし、当初の千里ニュータウンは、公共交通を整備するという概念は希薄でした。それよりもモータリゼーションの時代に適合させるかのように道路整備に力を入れ、マイカーを中心とする都市計画に傾斜していました。

 道路整備に力を入れていた千里ニュータウンでは、住民が大阪市内へと通勤するのには一苦労でした。入居開始時にニュータウン内を走る鉄道はなく、その翌年となる1963年に、ようやく阪急バスが運行を開始します。しかし、同バスはニュータウン内を走るといっても南端の千里山駅から吹田駅に向かうルートでした。そのため、大阪市内への通勤には不向きだったのです。

 こうした公共交通の整備状況から、千里ニュータウンは長らく陸の孤島と化していました。それを解消する鉄道は1970年から走り始めます。

 千里ニュータウンに鉄道が整備されたのは、言うまでもなく千里丘陵を会場地にした日本万国博覧会(大阪万博)が1970年に開催される影響でした。大阪府は万博会場までの輸送を担う鉄道整備を迫られていたのです。

 大阪府は万博会場へと向かう鉄道を大阪市営地下鉄(現・OsakaMetro)御堂筋線・江坂駅から延伸させる予定にしていました。

 大阪府は大阪市に御堂筋線の延伸を打診しましたが、大阪市は採算面や千里丘陵が大阪市外であることを理由に拒否します。大阪市に袖にされた大阪府は阪急を頼り、大阪府も出資する第3セクターの北大阪急行電鉄を設立。そして御堂筋線の江坂駅から継ぎ足す形で万国博中央口駅までを開業させたのです。

 万国博中央口駅は会場の最寄駅として機能しましたが、万博閉幕後は少し位置を変えて千里中央駅になりました。駅名とともに役割も変わり、ニュータウン住民の足を担うようになるのです。これが今に至るまで交通至便なニュータウンという位置付けとなり、千里ニュータウンは全国のニュータウンが急速に衰えていく中で活気を保ち続ける要因にもなっています。

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