1966年にスタートした長寿番組『笑点』(日本テレビ系)。同番組で昭和、平成、令和と55年にわたってお茶の間に笑いを届けた落語家の林家木久扇さん(87)。トレードマークの黄色い着物を羽織った噺家は現在、これまで訪ねることができなかった全国の寄席を回っている。惜しまれながら『笑点』を卒業した木久扇さんがこの1年を振り返った──。【前後編の前編】
「もうねえ、忙しくてびっくりしました。ご存じの通り『笑点』は放送が日曜日なんですよ。番組は録画で放送しているんですけど、生放送だと思ってる人もいて、僕に仕事を頼めないと思っていた人たちが多くいたみたいなんです。
卒業してからは、日曜日が空いたっていうんで全国から寄席の出演依頼があって、すごい忙しくなっちゃったの。『笑点』はずっと土曜日収録でしたから遠方の泊まり仕事も行けない。当時はずいぶん、仕事を断っていましたが、地方の仕事は3~4本くらいだったのが、今は月に10本ほどに増えました」
──今年も元日から浅草で初席に立たれていました。
「実はお正月の浅草演芸ホールの寄席だと11時20分あがりで15分喋って、その後、東洋館の出番が14時なんですよ。だいぶ時間があるでしょ? その間に書店に顔を出して、自分の本にサインなんかを入れる。
それで最後に八代亜紀さんのベストアルバムを買って戻ったりするんです。そうやっていつもちょこまか動いてます。じっとしてるとなにかダメなんですよ」
──黄色の着物のまま行かれるんですか。
「黄色い着物だと目立って人が集まってしまうので、着替えて行きます。でも黄色っていうのはお金が集まる色ですからね。僕は風水好きで、風水では西に黄色を飾るとお金が貯まるっていうのがあるんですよ。よく『笑点』でも『みなさんこんにちは、黄色い恋人、木久ちゃんです。僕の写真を西に飾っておくとお金が入りますよ』って自分を売っていました(笑)」
──木久扇さん卒業後、『笑点』では黄色が“永久欠色”になっています。
「そうですね、いないですね、なんか遠慮してるんじゃないですか。誰か着ればいいのにね」
──着物の色は、自分で選べるんですか?
「昔の『笑点』はテレビが白黒で、控えめな色の着物だったんです。カラーになってから、『好きな色の着物を選んでいい』っていうので、紫や赤とかの着物も置いてありましたが、僕は最初に目に入った黄色を選びました。それが僕のカラーになった。
小学生の鞄や帽子とか、みんな黄色じゃないですか。だからずいぶん黄色で得しました。少々、答えがよくなくても視覚的に笑ってもらえるんです。色は人に何かを訴えるんですよね」
──『笑点』を卒業したら、「おかみさんに孝行をしたい。ハワイに招待したい」と仰っていましたが、ハワイへは行かれましたか。
「昨年5月に5泊7日でハワイ旅行に行ってきました。長女と息子の(林家)木久蔵も荷物持ちで一緒に来てくれました。今までも定期的に行っていたんですけど、コロナが明けてから初めての海外旅行。ドライブでローカルなところでご飯を食べたり、日本人が経営しているかき氷屋さんに行ったり、フリフリチキンを食べて景色をみたり……。カウアイ島のビーチにも行きましたね。観光っぽいところは全然行ってないんですけど」
──ハワイ旅行のどんなところに「おかみさん孝行」が含まれていたのでしょうか。
「おかみさんに支度させないってところですかね。旅行先で外食するってことは、何日かはおかみさんが食事を作ったりしなくて済みますもんね。家事や掃除なんかはホテルがやってくれますから、それがとっても孝行じゃないかって思います」
──なるほど。「おかみさん孝行」には、そういった意味があったんですね。まもなく『笑点』を離れてから1年となりますが、木久扇さんは当時、“司会”の席をうらやましく思ったことはありましたか。
「昔、(桂)歌丸さんの代わりで5回くらい司会をやったことはあるんですけど、面倒というか、司会は自分を抑えて人を目立たせなくちゃいけない。だから面白いことを思いついても、こっちは言えないんです。向こうを食っちゃいけないから。
時代も違いますけど、昇太さんはあんまり緊張してないみたい。司会は大きい責任があるんですけど、それを軽く片づけていく昇太さんのやり方もいいですね」
──『笑点』もここ最近は、桂宮治さん、春風亭一之輔さんら新メンバーが加わり、木久扇さんの後任として立川晴の輔さんが選ばれました。弟子で息子の木久蔵さんに黄色い着物を着て、同じ座布団に座ってほしいという思いはありましたか。
「当時は随分予測されましたけど、自分のせがれに継がせたい、なんてお願いはしてないんですよね。まあテレビですから、そういうものじゃないしね。
でもああいう与太郎(間抜けな役)をやらしたら、うちの子どもはうまいんですよね。だから選ばなかった番組はずいぶん損したぞって思ってるんですけどね(笑)」
──木久蔵さんの今後が楽しみですね。最近、木久扇さんは新しいことに挑戦していると聞きました。
「寄席で『昭和芸能史』をやってるんですよ。落語の途中でアコーディオン漫謡の遠峰あこちゃんの『リンゴの唄』『みかんの花咲く丘』『港が見える丘』などのBGMが入るんです。
会場の空気も柔らかくなって、やりやすくなるなって気がついたんですよ。お客さんにも好評だったんで、僕の持ちネタにしてみようって思って、いつか音楽つきの落語をやってみようかなと思っています。僕も昔は『いやんばか~ん』ってレコードを出したりして、歌がうまかったんですけど年をとって、声の幅がすごい縮んだ感じがあります(笑)」
──今、描いている目標や夢を教えてください。
「僕はたどり着いちゃったからね……もう自分がやりたいことをみんなやっちゃったんですね。『ラーメンブーム』も作ったし売れたし、今では落語協会で長老みたいな立ち位置。じゃあ、もっとお金が入ればと思うけど、もうそんな活力というか、そんなものに力を入れるよりも、自分と家族のためにいっぱいサービスをしたほうがいいと思ってましてね。今は人生の卒業間際だと思うんで、音楽つきの落語を続けて広げていきたいと思いますね」
続編では、現在のリハビリ生活、寄席の直後に元外務大臣・田中眞紀子氏からの意外な電話などについて語っている。
(後編に続く)
取材・文/千島絵里香(ジャーナリスト) 撮影/岩松喜平