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【逆説の日本史】「平民宰相」ではあったものの「庶民派」では無かった原敬

NEWSポストセブン 2025年2月7日 16時15分

 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その19」をお届けする(第1444回)。

 * * *
 原敬は、日本憲政史上初の爵位を持たない(華族では無い)内閣総理大臣であった。だから「平民宰相」と呼ばれ、当初は庶民からも支持された。しかし、じつは一般に「庶民派」という言葉から連想される人物では無かった。

 戦後を代表する庶民派政治家と言えば、おそらくは田中角栄元首相(1918~1993。第64、65代内閣総理大臣)だろうが、原はむしろこうした人物像とは対極の硬骨漢だった。

 前回紹介したように、明治維新直後の戊辰戦争において奥羽越列藩同盟と戦った官軍は「白河以北一山百文」と嘲笑したが、それを逆手に取った原は自ら「一山」と号した。原は列藩同盟に加わった南部藩の家老の家に生まれたが、戊辰戦争で敗北した南部藩は賊軍とされ廃藩に追い込まれた。それでも原家は士族ではあったが、敬は嫡男では無く分家して平民になったので、バリバリの庶民派では無い。そして藩が潰れた後、苦学して外国語を学び『郵便報知新聞』の記者等を経て外務省に入省し、井上馨や陸奥宗光の知遇を得て順調な出世コースを歩んだ。

 だが、もともと官界は肌に合わなかったのだろう、立憲政友会の発足に参加し、政界に進出した。そして政界の大物となった原に、寺内正毅内閣当時の一九一七年(大正6)、たまたま郷里の盛岡に帰省していたところ地元有志から南部藩士戊辰殉難者五十年祭を開催するので祭文をいただきたいという依頼がきた。原は快諾し、式場に赴いて自ら祭文を読み上げた。

〈同志相謀り旧南部藩士戊辰殉難者五十年祭本日を以て擧行せらる、顧るに昔日も亦今日の如く國民誰か朝廷に弓を引く者らんや、戊辰戰役は政見の異同のみ、當時勝てば官軍負くれば賊軍との俗謠あり、其眞相を語るものなり。今や國民聖明の澤に浴し此事實天下に明かなり、諸子以て瞑すべし。余偶々郷に在り此祭典に列するの榮を荷ふ。乃ち赤誠を披瀝して諸子の靈に告ぐ。
旧藩の一人 原 敬〉
(『原敬日記 第四巻 總裁就任』福村出版刊)

〈大意〉
〈同志が集まって戊辰戦争で亡くなった南部藩士を弔う儀式が本日挙行された。歴史をふり返るに、昔もいまも国民は誰一人朝廷に反逆しようなどとは思っていない。それが戊辰戦争で争ったのは、たまたま政見の違いがあっただけだ。当時「勝てば官軍、負ければ賊軍」と流行り歌で歌われていたとおり、それが真相である。その後、明治大正の世となり、国民は天皇の恩恵に浴し、天下は平穏である。殉難者よ、安らかに眠ってくれ。私はたまたま故郷におり本日式典に参列する栄誉を受けた。ここに天皇への深い忠誠心をあらためて包み隠さず打ち明け、殉難者の霊に捧げるものである。
南部藩の一員であった原敬〉

 じつは、これは大変思い切ったことを言っているのだが、おわかりだろうか。天皇を無視することが大好きな(笑)左翼学者の本を読んでもまったくわからないだろうし、そもそもこの祭文が紹介されることも無いだろう。しかし、じつは原敬という人物を語るのに、この祭文はきわめて重要な史料である。

 原はまず、「官軍賊軍の別などというものは無い。政見の違いがあっただけだ」と言っているが、そもそも官軍に「錦の御旗」を授け東北の賊軍を討伐せよと命じたのは誰か。もちろん西郷隆盛など熱烈な討幕派の思惑はあったにせよ、これは形式的には明治天皇の命令である。つまりこれを言うことは、じつは「明治天皇の命令が間違っていた」と言っているのと同じことなのだ。

 天皇批判というのは、戦前においてはそれだけですべての地位を失いかねない大変な「反逆行為」だ。場合によっては、原を失脚に追い込めるほどのネタなのである。それなのに、なぜ原はそこまで言ったのか? 怨霊鎮魂いや「賊軍」として倒れた南部藩士を怨霊にしないためである。

 そもそも「官軍・賊軍」などという区別は絶対的なものでは無く、政見の違いによる便宜上のものだ、としたのもそのためだ。そうすれば殉難者は朝敵では無くなり、その魂は安らかな眠りにつくことができる。しかし、それは先ほども述べたように天皇への批判と取られかねない。だから、祭文の最後で「赤誠を披瀝」つまり自分は天皇への熱烈な忠誠心があることを包み隠さず述べる必要があったのである。

 こうした原の心情がわかれば、爵位を受けなかった理由もわかる。一口に言えば、「平民」であることを誇りに思ったから、では決して無い。じつは、明治以降昭和二十年までの日本人の身分には三つの評価基準があった。爵位のほかに勲位と位階である。

 位階は律令制度施行以来千数百年にわたって続けられた伝統ある制度で、「正一位」とか「従三位」などといったものである。また勲位も起源は古く、国家に対してどのような功績があったかを「勲一等」をトップにランク付けするものである。これに対して爵位(華族制度)は一番歴史が浅く、制定された明治十七年当時は明治維新でどれだけ功があったかが基準とされていた。

 たとえば、明治までは足軽だった伊藤博文が最高位の公爵になったのに対し、大名では伊達家の本家仙台藩が伯爵にしかなれなかったのに、その分家の宇和島藩伊達家は一階上の侯爵になった。宇和島藩は維新にさまざまな功績があったのに対し、仙台藩は奥羽越列藩同盟に味方した「賊軍」であったからだ。原にしてみれば、こうした「不公平」が腹立たしかったのではないか。

 その証拠と言うべきか原は頑なに爵位を受けることは拒否したが、位階と勲位は受けている。彼は「正二位大勲位」である。ちなみに大勲位とは勲一等を越える勲功を挙げた者への敬称で、勲章の大勲位菊花大綬章かその上の大勲位菊花章頸飾が天皇から授与される。頸飾とは文化勲章のように首からペンダントのようにぶら下げる勲章のことで、最近では暗殺された安倍晋三元首相が「大勲位」を受勲している。

 ただ、原敬は遺書で「墓標には位階勲等も書くな」と指示している。なぜ自殺したわけでも無いのに遺書が残されているのかということについては後ほど説明するが、古くからの制度ということで受けた位階勲等についても墓碑への記載を拒否したのはなぜか? それは、たとえば伊藤博文が原より上の従一位なのは、あきらかに維新における「賊軍討伐」の功が含まれているからであり、それがあるのに後世の人間に「伊藤よりは下なんだ」と思われるのが嫌だったのだろう。

 語弊はあるかもしれないが、原を支えていたのはあきらかに庶民派としての感覚では無く、傷つけられたエリート意識ではなかったか。そうでなければ、わざわざ「一山」と号しないだろう。しかしこのことは、じつは不幸も招いた。

 それはなぜか。

「普選反対」で選挙に圧勝

 理由はどうあれ、原は爵位を持っていなかったから「平民宰相」であったことは間違い無い。そしてそれは、同じ平民から見れば「自分たちの仲間」が宰相まで上り詰めたということだ。当然、彼らは原が「平民寄り」の政策を取ることを期待した。では、この時期の平民つまり庶民が政治に対してもっとも望んでいたことはなにか? それは、普通選挙の完全実施である。

 普通選挙は制限選挙の反対語で、制限選挙とは一定の国税を納めた成年国民男子のみに衆議院選挙における選挙権(投票権)、被選挙権(立候補権)を認める、という制度である。こうなったのには、日本ならではの歴史的経緯がある。欧米では、キリスト教(プロテスタント)の「神の下の平等」がフランス革命(1789年)の行動原理でもあったので、これをもとに三年後の一七九二年に世界初の普通選挙が実施された。

 ただ注意すべきは、この「普通」というのは成年男子のみに適用される概念であり、女子は最初から排除されていたということだ。じつは、フランスで男女平等の本当の普通選挙が実施されたのはなんと一九四五年、つまり昭和二十年であった。日本では、敗戦によって被占領国家となりGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の強制的な改革によってようやく一九四六年(昭和21)に男女平等の普通選挙が実施されたのだが、フランスは日本と「ほぼ同時」だったのだ。

 キリスト教には、「女子は別枠」で扱う長い伝統があったのである。また、スイス連邦と言えば日本では先進国というイメージがあるが、男女平等の普通選挙が法律によって認められたのは日本よりはるかに遅い一九七一年のことだった。スイスは永世中立国で国民皆兵だが、「銃を持って国を守る男子だけが参政権を持つべきだ」という伝統的な考えが根強かったことによる。それぞれ「お国事情」というものがあるのだ。

 大日本帝国は、前にも述べたようにキリスト教の神のような絶対神が一般的では無いので、幕末以降天皇を神の座に押し上げ「平等化推進体」となして四民平等(士農工商の撤廃)を成し遂げた。しかし「士族」の福澤諭吉が『学問のすゝめ』を書いたのは、農工商の人々は近代国家の一員となるには教養や知性が不足していると考えたからだろう。これが「制限選挙で当面はいくべきだ」という社会的コンセンサスにつながっていく。

 ただ「選挙権は士族のみに限る」などと言えば、「四民平等はどこへいったのだ!」と大問題になる。しかし、所得の多寡ならば身分の上下と直接つながらない。商人でも多くの収入があり、そのぶん納税している人間は国家に貢献しているから功労を認めて選挙権を与える、というのは筋がとおる。つまり、納税額によって選挙権を与えるのは制限選挙としては都合のいいやり方だったのである。

 ちなみに、このやり方を世界で最初に考えたのはフランスで、フランス革命直後の選挙はこの形で実施された。日本にとっても「民主主義(当時は民本主義と言ったが)の本場でもこういう形で制限選挙は行なわれていたのだ」と説得の材料にも使われただろう。

 一八八九年(明治22)の大日本帝国憲法発布と同時に衆議院議員選挙法が公布されたが、選挙権が与えられたのは直接国税を十五円以上納めた満二十五歳以上の男子のみで、対象者は総人口の約一・一パーセントにすぎない約四十五万人だったという。このあと衆議院議員選挙法は何度か改正され、そのたびに「納税額」は減額されていったのだが、大逆事件で危機感を抱いた桂太郎が普通選挙を絶対に認めない方針を打ち出し、一時は「冬の時代」となった。

 それでも明治以降、ほかならぬ政府が実行した教育制度の整備などによって国民の識字率も高まり、「職人でも新聞が読める時代」が到来していたので、原内閣時の一九一九年(大正8)、納税額が直接国税三円以上と大幅に減額され、総人口の約五・五パーセントが投票できる選挙法が成立した。

 しかし、こののち原は普通選挙には反対の立場を取り、一九二〇年(大正10)の第十四回衆議院総選挙では「普通選挙法の是非を問う」という姿勢を打ち出した。原の率いる与党政友会が「普選反対」、野党が「普選賛成」を広く訴えた。日本で初めての、争点を明示した衆議院選挙だったと言われる。この総選挙に政友会は圧勝した。選挙権を持っている人間が、広く選挙権を拡大することで特権を失うことを恐れたからだと言われる。

 この戦略を立てたのは原で、その意味では大成功と言えるのだが、原はこれで民衆の人気を失ってしまった。おわかりだろう、「庶民派なのに、なぜ普通選挙に反対するのか!」という反発を食らったのだ。大衆に迎合することが大好きな新聞も、このときさんざん原を叩いて普通選挙を実現しようとしたのだが、結果は大失敗に終わった。当然、新聞は原に対して批判的になる。

 原の真意はまだ日本の民度は普通選挙法に耐えられるほど高まっていない、ということだったようだ。もちろんそれは私の推測で、そんなことを原が述べたという史料は無い(政治家としてはそういうことを口にできないし、書けもしない)が、原の一生を通じて見ると非常に慎重な姿勢が目立つ。いわば、漸進的に物事を改革していくというのは原の基本姿勢で、このときもそうだったのではないかと考えられるわけだ。

 そしてもう一つ。原が庶民の人気を失ったのは、シベリア出兵への対応だった。原は慎重な政治家であるがゆえに、英米協調論者であった。そして英米協調論者であるがゆえに、アメリカの意向を尊重し軍の過大な要求には応じなかった。だがそれは、「バイカル博士の夢」の実現を望んでいる庶民にとっては裏切りということになる。

(第1445回に続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『真・日本の歴史』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2025年2月14・21日号

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