Infoseek 楽天

《築地市場の誕生と鉄道との関わり》”貨物列車シフト”で作られたカーブを描く外観、早朝のセリに合わせたダイヤ調整も

NEWSポストセブン 2025年2月6日 7時15分

 近年、貨物列車が見直されている。トラック輸送が拡大されて縮小していたが、運転手不足や環境負荷への問題などから、トラックから鉄道貨物へと輸送手段をシフトする動きが目立っているほどだ。長距離輸送を鉄道で行うのが最先端だった時代には、列車を目的地へ直接、引き込み、荷下ろしができる建屋とするのが新しかった。ライターの小川裕夫氏が上梓した「鉄道がつなぐ昭和100年史」(ビジネス社)から、1935年から2018年まで83年間、つかわれていた公設の卸売市場「築地市場」の誕生と鉄道の関わりについて、再編集してお届けする。

 * * *
 2018年に営業を終了した築地市場は、もともと日本橋にあった日本橋魚河岸と京橋にあった京橋青物市場をルーツとしています。日本橋魚河岸と京橋青物市場は、1923年の関東大震災で建屋が損壊したことから築地へと移転、1935年に開設しました。

 江戸時代の物流は舟運が主力です。地方から物資が集まる江戸は、市中を河川が縦横無尽に走り、その町割は基本的に明治期にも受け継がれていました。

 明治期には市区改正といった都市大改造が断行され、東京という都市は大きく変化していきます。それでも、江戸から東京は連続性を保った都市のままでした。

 そうした連続性を断ち切ったのが、関東大震災です。関東大震災は日本の地震史に記録される大地震で、浅草の凌雲閣が倒壊したことなど、その被害の大きさが語り継がれています。凌雲閣は高さが約 52メートルの高層建築で、12階建てだったことから「浅草十二階」と呼び親しまれていました。

日本橋から築地へ

 浅草十二階が倒壊するほどの大地震でしたが、それ以上に被害を大きくしたのは火災です。地震発生の時間帯が昼食時だったこともあり、多くの家庭では炊事中だったのです。

 当時は調理に薪や炭で火をおこす「かまど」や「七輪」などを使用するのが普通だったこともあり、倒壊した家屋に炊事の火が燃え移り、家屋が燃えた火が連鎖的に隣の家屋へと飛び火するといった具合に火の手は拡大していきました。

 特に、江戸の町割りを残していた日本橋・銀座・神田・上野といった、いわゆる下町は地震後に起きた火事によって壊滅します。

 関東大震災による被害は、東京市だけで 30万8000世帯を超えました。当時の東京市は東部の15区だけで現在の渋谷区や新宿区、豊島区や目黒区は含まれていません。今の23区と比べると、東京市はおおよそ半分の大きさでしかありません。それでも東京市の人口は、日本の総人口が約5500万人だった時代に約230万9000人を占めており、それだけ都心部に家屋が密集していたのです。

 そんな過密都市・東京だったこともあり、約133万4000人が罹災、死者は5万8000人超という大災害になりました。

 日本橋魚河岸は地震によって損壊し、その後の火事で焼失。しかし、すぐにバラックで仮営業を始めた卸売商もいました。

 もともと日本橋魚河岸は、江戸時代から鮮魚の卸売市場だったので、震災以前から魚の汚臭や魚の処理に伴って発生する汚水を理由に中心部からの移転を求められていました。

 関東大震災で焼失したことを機に、日本橋魚河岸の移転計画は大きく動き出します。移転議論では、あまり遠くへ移転すると顧客が離れてしまうという懸念が出ました。そのため、日本橋から離れつつも以前の場所から近いことが新天地の条件に課されました。

 その条件をクリアしたのが築地です。築地には海軍省が保有する広大な用地があり、東京市は水運に恵まれているという立地も卸売市場に適していると考えました。海軍から借り受ける形で震災から3か月後には、臨時的に築地へと市場が移転します。しかし、これはあくまでも仮という扱いでした。なぜなら、築地への移転に抵抗感を示す日本橋魚河岸関係者が少なくなかったからです。

 同様に関東大震災で被災した京橋青物市場でも、同じ場所で商売を続けたいと考えていた卸売商が多くいました。

 こうして意見はまとまらないまま時間が過ぎ、また日本橋・京橋それぞれの足並みも揃わず、築地市場への移転は間延びしていきます。それでも1934年には築地市場の建屋が完成。築地への移転が既定路線になりました。

銀座にあった踏切

 築地に新設された建屋は、弧を描くように設計されました。弧を描くように設計された理由は、長編成の貨物列車が入線できるようにとの考え方に基づいています。築地市場内部に敷設された線路とプラットホームは、貨物列車に積載されていた農産物・水産物をそのままセリ場へと運べるような構造になっていました。

 築地市場で取引される鮮魚は、早朝に地方から同駅へと到着していました。そして、そこから再び各地へと発送されていきます。

 国鉄では早朝のセリに間に合うように貨物列車のダイヤを調整していました。戦後、東海道本線は夜行列車が多く走っていたこともあり、早朝に間に合うようにダイヤを調整することは至難の技でした。築地市場へと向かう貨物列車は時間厳守のため、国鉄のダイヤ作成担当者は常に頭を悩ませていたようです。

 築地市場の近隣には汐留貨物駅がありましたが、築地場内にも東京市場駅があり、1997年まで両駅では物資輸送が続けられました。汐留貨物駅から東京市場駅の間には都道316号線が横切っていて、1970年代以降は自動車が激しく往来する道路になっていました。運転本数が少ないとはいえ、この道路を貨物列車がゆうゆうと走り、その間は遮断機が降りて自動車の往来が塞がれていたのです。その自動車交通を止める役割を果たしていた踏切は名物になり、東京市場線が廃止された現在もひっそりと残されて過去の歴史を伝えています。

この記事の関連ニュース