2月3日、阪神タイガースを監督として球団史上初の日本一に導いた吉田義男さんが亡くなった。91歳だった。吉田さんには拙著『巨人V9 50年目の真実』(小学館)の取材でインタビューに応じていただいた。
現役時代の吉田さんは俊足巧打で好守を誇る遊撃手で、阪神の主力として巨人と対峙した。9年連続日本一(1965~1973年)を成し遂げた川上(哲治)巨人についてはその強さをこう認めていた。
「9連覇中の巨人は強かった。長嶋(茂雄)は“負ける気がしなかった”と言っていたが、こっちは“勝てる気がしなかった”ですわ(笑)。特に堀内(恒夫)がマウンドに立っていると、1点や2点のリードでは勝っている気にはなれませんでした。ランナーを進めようとすると、内野が猛ダッシュしてくる。攻撃時も相手の守備に攻められているようだった。絶対的に有利なはずの甲子園での攻撃中でもそんな感じなんです」
吉田さんからは、巨人V9の裏話をたっぷりお話しいただいた。巨人の選手は選球眼が良くて四球を選ぶため打線がつながると話した吉田さんは、「もうひとつ厄介なのが審判でした」と苦笑交じりにこう続けた。
「審判も人の子だから、迷った時は“王(貞治)や長嶋が見逃したならボールだ”と、彼らに有利な判定をしてしまう。いわゆる“王ボール”とか“長嶋ボール”というヤツですわ。当時の阪神には小山(正明)や村山(実)といった球界を代表する投手がいたが、彼らは揃って“ワシらは10人を相手に野球をやらなアカン”とこぼしていました。勝負の世界ではこれも実力のうちですから仕方ありまへん」
王貞治の本塁打阻止のため、藤本監督から受けた「指令」
当時は甲子園といえども巨人戦以外は満員にならなかったという。巨人戦の注目度の高さについてはこんな言い方をしていた。
「満員のスタンドの巨人戦ではみんながハッスルするので、巨人戦のあとは疲れますねん。今は全試合満員なのでそうじゃないが、巨人とは互角のゲームをしても、その次のカードはボロボロだった。監督が巨人戦にローテを合わせなくても、村山や江夏(豊)のように巨人を目の敵にして投げていた投手がいましたからね」
巨人に対する作戦を聞くと、「強いていえば、後楽園球場での巨人戦で藤本(定義)監督からこんな指令を受けたことがある。デビュー当時の王は“三振王”と野次られていたが、1本足にしてから本塁打を量産するようになった。それを阻止するために、ショートを守っているボクに“二塁ベースの上に立て。守らなくていいから、投手の真後ろで両手を振り回して王の目をくらませろ”と。実際にはやらなかったが、それでも王は打ったと思う。それぐらい強い巨人への策はなかった」とも話していた。
監督として大切にした「ミスしたらまた大事な場面で使う」という信念
1985年、吉田監督が率いる阪神は日本一になったが、川上巨人を参考にしたのかと聞くとこんな答えが返ってきた。
「その前に3年間(1975~1977年)監督をしました。ボクは失敗したとは思っていないが、クビになりました(苦笑)。その経験が生きたのと、解説者をしていたので阪神は力を出し切れば優勝争いができると思っていた。監督に就任したら、選手には“一丸になれ”“力を出し切れ”と言い続けた。ボクは現役時代に失敗して覚えたから、打たれたりミスしたらまた大事な場面で使った。それが成功した」
そして「だから川上巨人を手本にしたとは思っていない」と断言するのだった。
吉田さんは「あんな監督になりたいと思ったのが2人います」と言って、こんな話も聞かせてくれた。
「ひとりは川上さんですね。川上さんは0対0の同点、しかも9回裏二死満塁フルカウントの場面で、バッターに“待て”のサインを送った。今の監督でこのサインを出せる人はいないでしょう。高めのボールを振る習性がある選手でしたが、高目に外れたボールを見送って勝っている。これを巨人の選手から聞いた時は“川上巨人には勝てないはずだ”と思いましたね。
もう一人は落合(博満)。日本シリーズで8回までパーフェクトピッチングをしていた山井(大介)を降板させ、岩瀬(仁紀)をマウンドに送った。そんなこと山井の性格を把握できていない限りできない。川上さんに似ていると思った」
柔らかい関西弁で本音をズバスバ言える野球人・吉田義男。阪神タイガースを愛し、巨人とともに球界を盛り上げたいというのがインタビューでは伝わってきた。心よりご冥福をお祈りいたします。
■取材・文/鵜飼克郎(ジャーナリスト)