1月に就任したばかりのドナルド・トランプ米大統領がアナウンスする施策は極端に聞こえるものが多く、なかでもメキシコ、カナダ、中国へ次々と関税措置を突きつけるやり方は恫喝外交だという批判もある。ところが、米国で年間10万人超になる薬物過剰摂取による死亡者数のうち、半数以上を占める「フェンタニル」対策としては有効だと評価する声もある。この問題は、中国とアメリカのことで、日本には関係が無いと言えるのだろうか。危険ドラッグの取材を続けてきたライターの森鷹久氏が、フェンタニルをめぐる諸問題は日本にとっても他人事ではない現実についてレポートする。
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2月4日から予定していた、カナダとメキシコに対する25%の関税措置の発動が1ヶ月間停止されることになった。同時に発動する予定だった中国への10%追加関税は協議不調で実行に移され、中国も対抗措置をとると表明している。今回の関税措置の理由のひとつとしてトランプ大統領がたびたび名前を挙げる「フェンタニル」とは、いったい何なのか。そして、結果的にではあるがアメリカが中国一国のみを狙い撃ちにしたのはなぜなのか。アメリカ国内の薬物事情を取材した民放キー局の米国支局記者が、その深刻さを訴える。
「私が取材したのは、アメリカ東部、ペンシルバニア州の最大都市・フィラデルフィアでした。ダウンタウンには薬物中毒者があふれ、まるでゾンビゲームのような世界が実際に広がっています。彼らが使用しているのはヘロインやコカインなどの麻薬がメインですが、特に『フェンタニル』と呼ばれる強力な鎮痛薬の乱用が問題になっています。そのほとんどは、隣国のメキシコ、カナダを経由して違法にアメリカに持ち込まれています」(民放米国支局記者)
すでに日本国内の複数のメディアが、「ゾンビ通り」「ゾンビ・タウン」などと呼ばれるフィラデルフィアの一角の惨状を取材し報じている。テレビでも流れた、その様子はまさに「地獄」だ。うら若い女性が、真っ昼間から半裸でよだれを垂らしながら徘徊していたり、ある高齢男性は、薬物の影響で神経系がやられたのか、背中をくねらせたような不可思議な格好で何十分も立ち尽くしたりしている。記者が取材した付近の飲食店店主は「みな薬物中毒者ばかりだけど、何もかもやる気が無くなり、暴動や略奪が起きないほど。人間を人間でなくするのがフェンタニルだ」と証言するばかりだったという。こうした目を覆うような光景は、ニューヨーク郊外のダウンタウンやロサンゼルス、サンフランシスコなどの西海岸地域にも広がりつつあり、薬物汚染に歯止めが効かない状態に陥っているのだ。
「中国産のフェンタニル」問題
やる気が無くなるだけではない。がん患者の鎮痛剤として使われるフェンタニルは、毒性も強く、精神的にも身体的にも依存性を持つことでも知られ、日本では医療用麻薬に指定されているが、世界では不正使用が大きな問題となっている。2016年に亡くなった歌手・プリンスの死因はフェンタニルの過剰摂取だったとされるなど、米国では何人もの著名人がフェンタニルによって亡くなっている。被害は米国全体に広がっており、米国疾病対策センターによれば、フェンタニルの過剰摂取により、2023年だけで約7万5000人が死亡しているのだ。
メキシコやカナダからアメリカ国内へ流入している「フェンタニル」だが、そもそも、原材料の大半は中国などから輸入されたものだと言われている。中国から直接、アメリカへ持ち込むよりも障壁が少なく、メキシコに存在する巨大な麻薬カルテルが中国から輸入した原料で製造し陸路でアメリカ国内に麻薬を持ち込んでいる、という指摘は何年も前からあった。だが実は、メキシコと接する南側国境だけでなく、行き来が比較的ゆるやかなカナダと接する北側からも麻薬の密輸が多かったことから、カナダとメキシコを名指しで今回の措置になったとみられる。
アメリカ国内ではこれまでも「中国産のフェンタニル」について多くの議論が交わされてきた。2024年4月には、中国側が国内のフェンタニル原料の製造事業者に補助金を出すなどしていたことも判明。その後、一転して規制強化に舵を切っているが、フェンタニルの米国流入は止まっていない。先の記者が続ける。
「現代版の『アヘン戦争』と呼ぶ人もいるほどです。19世紀に清とイギリスが戦ったアヘン戦争と違って、今回、中国はアヘンを売りつけられた被害者ではなく、アメリカに麻薬を売りつける加害者。法整備の穴をつき、メキシコやカナダなどの第三国を巻き込み、各国の信頼関係までぶち壊す、まさに麻薬の力でこれをやり遂げているのです」(民放米国支局記者)
アヘン戦争になぞらえて対中国の「フェンタニル戦争」と呼ぶ人もいる現在の事態に対し、なかなか有効な対抗手段がなかったが、トランプ大統領の強権により大きな転換が訪れる可能性も見えてきた。だが、悪い意味ではあるがニーズがこれほど高い薬物の製造は、なかなか止まるものではないだろう。そうなると、アメリカへ行くはずだったフェンタニルやその原料は他の国に流れていくだろうし、フェンタニルではなく代替的な麻薬が、新たに蔓延する懸念もあろう。
危険ドラッグも大麻グミも原料は中国由来だった
ここまでアメリカの薬物、とくにフェンタニル中毒の事情について述べてきた。そもそも日本より薬品への規制がゆるやかで、薬物中毒がまん延している度合いが違いすぎるから、日本で暮らすぶんには縁遠い話だと思うかもしれない。だが、実は身近な問題だと我々は知っておかなくてはならない。
十数年前に日本国内で流行し、乱用者自身が死亡するだけでなく、彼らが引き起こす事故が続出したことでも知られる「危険ドラッグ」のことを思い返してほしい。危険ドラッグを追って取材すると、使われていた原料は、ことごとく中国から輸入されていたものだった。2024年に摂取した人が救急搬送されるなどして問題になった「大麻グミ」の陶酔成分についても、複数の製造者や販売店に確認をしたところ、そのすべてが「中国」、もしくは東南アジア等の第三国を経由した「中国」から輸出されたものだったことも、筆者の取材で明らかになっている。
さらにいえば、流通や販売の過程には、日本国内の暴力団構成員や中華系マフィアとも関係のある半グレがなども多数関与している。米国でのフェンタニルを含む合成麻薬問題に、カナダルートも含めてメキシコの麻薬カルテルが関わっているとみられていることと比較すると、日本でも似たような仕組みを持つ人たちが、中国原産の薬物を違法に持ち込むビジネスを展開していることが分かる。
現時点では、がん患者の鎮痛剤として使われるほど強力なフェンタニルのような麻薬が、中国から違法に大量に持ち込まれているとか、乱用者が増えているといった話は、日本国内では聞かない。ただし、風邪薬などの市販薬の乱用が若い世代の一部で横行していたり「合法大麻」などと銘打った、得体の知れないドラッグは今なお繁華街で気軽に購入できてしまう現状がある。こうした「ニーズ」を、売人の連中は絶対に見過ごさないはずで、一気に強力な麻薬が、日本国内に蔓延してしまう可能性は捨てきれない。
アメリカが関税措置を実行したことについて「やり過ぎだ」という声もあるだろう。自国民の薬物乱用にストップをかければ済む話だと、アメリカを非難する声もある。だが、劇薬なのに規制をあまりせず、注文があるからと製造して輸出を止めない中国にまったく責任がないと言えるのだろうか。追加関税に対して報復措置を中国はとった。「現代のアヘン戦争」ともいえるフェンタニルをめぐる米中のせめぎ合いは、どのような形で「決着」を迎えるのか。