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宝塚歌劇第一回公演の“予想外すぎる場所”「脱衣所を改造して…」と甲子園球場秘話「そんなにぎょうさんの人が来るんかいな」《阪急VS.阪神》

NEWSポストセブン 2025年2月11日 11時5分

 華やかな宝塚歌劇団に、全国熱狂させる甲子園球場―――。関西の文化は独特の発展を遂げている。

 関東と関西にはさまざまな違いがあるが、「鉄道」もその一つだ。首都圏では官営の鉄道が公共交通の核を担った一方、関西は私鉄が公共交通の主軸として街づくりが進められた。そうした関西の発展に貢献してきた私鉄の歴史を紐解くと、関西の“文化”が見えてくる。

 大阪出身の元全国紙新聞記者・松本泉氏が、関西五大私鉄(阪急、阪神、京阪、南海、近鉄)の歴史を綴った『関西人はなぜ「○○電車」というのか─関西鉄道百年史─』(淡交社)より、阪急電鉄VS.阪神電気鉄道をお届けする。(同書より一部抜粋して再構成)【全5回の第1回】

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 阪急と阪神がスピード競争だけに明け暮れていたのかというと、決してそんなことはなかった。

 沿線に魅力的な行楽施設をつくり、一人でも多く乗客を集めるとともに、企業イメージのアップを図ろうと腐心した。

 大正時代になると、郊外に居を構えて、都心の会社や商店に通うサラリーマン家庭が登場した。彼らは、休日にはレジャーや買い物を楽しむ新しい都市型の生活スタイルをつくっていった。

 鉄道は人を運ぶだけではなく、夢や楽しみを運ぶことも求められるようになった。

 阪急は、箕面有馬電気軌道の開業当初から、住宅地の開発とあわせて行楽施設の開発にエネルギーを注いだ。利用客を一人でも多くつくり出して、「ミミズ電車」から脱却することが使命だった。

 メインになったのは「宝塚」だった。

 箕面有馬電気軌道は、もともと大阪と有馬温泉を結ぶ計画で、宝塚は通過点に過ぎなかった。日本の三大古湯の一つである有馬温泉ならいざ知らず、寂れた湯治場である宝塚温泉では行楽客は限られている。

 開業翌年の1911(明治44)年に、家族連れでも気軽に利用できる温泉施設として「宝塚新温泉」を開設した。

 翌年には、演芸場のほか当時は珍しかった室内プールなどを備える娯楽施設「宝塚新温泉パラダイス」をオープンした。

 温泉というと芸妓と遊ぶ男性の社交場というイメージが強かったが、宝塚新温泉パラダイスは、子ども連れでも楽しめる娯楽施設を目指した。「宝塚婦人こども博覧会」を開催し、室内プールは男女別にして“健全性”を打ち出した。

歌劇の舞台は室内プール

 1913(大正2)年には、現在の宝塚歌劇につながる宝塚唱歌隊を結成し、翌年には宝塚少女歌劇の第1回の公演にこぎつけた。

 劇場は、開設したばかりの新温泉パラダイスにつくった室内プールだった。

 室内プールは娯楽施設の目玉だったが、当時の日本人は室内プールなど見たことも聞いたこともなかった。プールのある学校が珍しかった時代だ。

 室内プールは日が差さないので、夏でも温水を使わなければ水温が低くて泳げない。室内プールの担当者はそんなことも知らなかった。

「あんなとこで泳いだら凍え死んでしまうわ」という客が続出したため、すぐ閉鎖になった。

 水を抜いて使わなくなった室内プールほど間抜けなものもなかった。担当者が頭を痛めていたところへ飛び込んできたのが、少女歌劇の公演だった。

 室内プールに板を張って観覧席をつくり、脱衣所を改造して舞台を設けると立派な歌劇場になった。少女歌劇は爆発的な人気を集めた。

 それまでは温泉場の演芸場といえば、芝居や日本舞踊、講談や浪花節が常識だった。西洋音楽を主体にした清新な少女による歌劇は、子どもからお年寄りまで家族そろって楽しめた。宝塚歌劇は、新たな都市文化、大衆芸能として広く受け入れられていった。

 宝塚はどんどん進化を遂げた。

 1924(大正13)年に、宝塚少女歌劇を公演する常設施設として「宝塚大劇場」をつくり、一帯を総合レジャーランドに整備した遊園地「ルナパーク」や大植物園、動物園などを設けた。

 隣接地には2万人以上を収容する宝塚運動場を整備した。プロ野球や高校ラグビー、高校サッカーを楽しむことができた。このほか、宝塚映画撮影所が置かれ、数多くの映画が宝塚で撮影され、全国の映画館で上映された。

 戦後も、家族連れで気軽に訪れることができる関西有数のレジャー施設として成長した。

 1960(昭和35)年には「宝塚ファミリーランド」と名を改め、文字通り、家族で楽しめるレジャー施設として関西を代表する一大レジャースポットとなった。

楽しい休日は甲子園で

 阪急が「宝塚」なら、阪神は「甲子園」だった。

 1924(大正13)年に、甲子園大運動場(現在の阪神甲子園球場)がオープンした。

 5万人収容のスタジアムは、当時、世界最大級を誇った。年ごとに観客が増える高校野球(当時は中等学校野球大会)に対応するため、5か月の突貫工事で完成させた。

 目をむくような破格の大きさだったため、「ほんまにそんなにぎょうさんの人が来るんかいな」といぶかしがられた。

 しかしいざ大会が始まると、3日目に早くも「満員札止め」となったという。

 戦前の甲子園球場は、野球専用グラウンドではなく、あくまでも“大運動場”だった。

 行われたのは野球だけではなかった。ラグビーやサッカーはもちろんのこと、北陸から貨車10台で雪を運び込んで「全日本選抜スキー・ジャンプ甲子園大会」を行ったり、グラウンドに戦車を並べて「戦車大展覧会」を開いたり、巨大なステージを設けて「野外歌舞伎」を催したりと、関西有数のエンターテインメント施設だった。

 甲子園球場から南へ1キロほど行くと浜甲子園と呼ばれる海浜が広がっている。戦前は大阪や神戸から大勢の人が訪れ、海水浴や潮干狩りでにぎわった。

 甲子園球場を核に一帯をレジャーエリアにしようと考えた阪神は1929(昭和4)年、浜甲子園に「甲子園娯楽場」をオープンさせた。3年後には「浜甲子園阪神パーク」と名を改め、一気に拡充していった。

 阪神パークでは飛行塔や子ども汽車といった遊戯施設のほか、クジラやペンギンを見ることができる国内最大級の阪神水族館、動物園、プラネタリウムなどを設けた。

 一帯には南甲子園運動場やプールなどのスポーツ施設が次々とつくられた。宝塚が家族連れで楽しむレジャーエリアとしたら、甲子園は若者が友達と連れ立って楽しむレジャースポットになっていった。

(第2回に続く)

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