1936年から始まった日本プロ野球の歴史。その球団オーナー企業には現在、新聞や食品、ITなど、さまざまな業界の会社名が並ぶが、かつては鉄道会社が数多く名を連ねた。中でも存在感を放っていたのは「関西私鉄」だ。
関西五大私鉄の歴史を綴った『関西人はなぜ「○○電車」というのか─関西鉄道百年史─』(淡交社)著者の元全国紙新聞記者・松本泉氏は、「日本のプロ野球の基盤は、関西の私鉄が築き上げた」と指摘する。では、関西私鉄はプロ野球の創生期にどう貢献したのか。球団は関西の人々にとってどんな存在だったのか。同書より、プロ野球と関西私鉄の相関関係をお届けする。(同書より一部抜粋して再構成)【全5回の第2回。第1回を読む】
* * *
日本のプロ野球の始まりは、1936(昭和11)年の職業野球リーグ戦といわれている。
参加したのは東京巨人軍(現在の読売ジャイアンツ)、大阪タイガース(現在の阪神タイガース)、名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)、東京セネタース(後の東急フライヤーズ)、阪急軍(後の阪急ブレーブス)、大東京軍(後の松竹ロビンス)、名古屋金鯱軍の7チームだった。
リーグ戦といっても、春季、夏季、秋季の大会として開催され、試合数も10試合前後に過ぎない。優勝チームが確定しない大会もあった。
「野球を職業にするような男は単なるやくざ者だ」と思われていた時代である。参加するチームも、プロ野球リーグも、手探り状態が続いていた。
さまざまな企業が結成に関わっており、読売新聞社オーナーの正力松太郎が熱心に働きかけて誕生したチームが少なくなかった。
そんな中で異彩を放っていたのが、阪神電鉄が結成した「大阪タイガース」と、阪神急行電鉄が結成した「阪急軍」だった。
鉄道会社が母体となり経営基盤がしっかりとしていただけではなく、甲子園球場、西宮球場という本格的な大規模スタジアムをホームグラウンドとして所有し、イベント運営にも支障がなかったからだ。
東京巨人軍、大阪タイガース、阪急軍以外のチームは、オーナー会社が転々とし、ホームグラウンドも粗末で、不安定な経営を続けていた。
しかし、1938(昭和13)年に結成された「南海軍」と合わせて、関西の私鉄が所有した球団は、安定した経営と運営で創生期の日本のプロ野球をけん引した。甲子園球場や西宮球場が、初期のプロ野球の“夢舞台”となった。
日本のプロ野球の起源は、まさに関西の私鉄といってもいい。関西の私鉄が球団を持っていなければ、日本プロ野球の本格的な誕生は20年以上遅れていたに違いない。
おばちゃんたちも熱烈ファン
昭和40~50年代の大阪のおばちゃんには、阪急ブレーブスの熱烈なファンが多かった。
パ・リーグ(パシフィック・リーグ)のペナントレースが大詰めを迎えると、
「今年も阪急は強いねえ」
「日本一は間違いないわ」
おばちゃんたちの会話が街を飛び交った。
それは阪神電車の中でも、南海電車の中でもお構いなしだった。おばちゃんたちはそれほど阪急ブレーブスを愛していた。
ところが会話が進んでいくと、決まって怪しくなった。
「山田久志というピッチャーが強いらしいわ、知らんけどな」
「速う走るのは福本豊やんな、よう知らんけど」
もうお気付きだろう。
おばちゃんたちのお目当ては、ブレーブスが優勝したときの「阪急百貨店の優勝記念バーゲン」だった。
リーグ優勝に続いて、日本シリーズでも優勝してくれたらバーゲンは2回もある。これはもうたまらない。ピッチャーは山田久志でも江夏豊(当時の阪神のエース)でもだれでも良かった。
それなら、阪神タイガースが優勝したら阪神百貨店でバーゲンがあるし、近鉄バファローズが優勝したら近鉄百貨店がある。
なんで阪急なのか。
「阪神も近鉄も弱いやん。優勝できんチーム応援してもしゃあないやろ。何いうてんの」
さすがだ。大阪のおばちゃんには勝てない。
こういった熱烈な阪急ファンのおばちゃんたちを除けば、関西のプロ野球のファンは私鉄ごとにくっきりと分かれた。
阪神、阪急、南海、近鉄と4つものプロ野球チームがひしめきあっていたが、電鉄沿線ごとにきれいに“仕分け”されていた。
阪急ブレーブスの帽子をかぶったまま、うっかり近鉄電車にでも乗ってしまうと大変だった。酔っ払ったおっさんは、たとえ幼い子どもでも容赦しなかった。
「こら、近鉄乗るときはバファローズの帽子かぶらんかい。昔から決められてるんや。学校で習わんかったんか」
周囲の乗客も子どもに同情するのではなく、心の中で秘かに酔っ払いのおっさんに拍手するのだから筋金入りだった。
(第3回に続く)