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"日本の夏の通勤地獄"を変えた《関西私鉄戦争》 冷房車導入への“昭和なハードル”と庶民には異次元な「超ぜいたく列車」とは

NEWSポストセブン 2025年2月12日 6時52分

 関西圏の発展に貢献してきた阪急、阪神、京阪、南海、近鉄の五大私鉄。各社は熾烈なスピード争いを繰り広げてきたが、速度だけの勝負では限界がやってきた。そこで、各社は速さではなく、サービス内容で競う方向へと舵を切った。この争いによる「アイディア」勝負が、関西私鉄から数々の“日本初・日本一”を生み出すことになった。

 大阪出身の元全国紙新聞記者・松本泉氏が、関西五大私鉄の歴史を綴った『関西人はなぜ「○○電車」というのか─関西鉄道百年史─』(淡交社)より、関西私鉄から生まれた日本初・日本一をお届けする。(同書より一部抜粋して再構成)【全5回の第3回。第2回を読む】

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 平成時代に生まれ育った人には想像もできないだろうが、昭和時代の夏の通勤電車は“地獄”だった。

 乗車率200%を超えて身動きが取れない車内に、冷房などなかった。天井の扇風機は熱気をかき回すだけ。窓から入ってくる風も熱気を巻き上げるだけ。

 それでもバタバタと人が倒れることはなかったから、昭和の通勤客は頑丈だった。

 当時、南海は阪和電鉄と熾烈な競争を繰り広げていた。阪和電鉄を出し抜くための話題作りの一つだったことは確かだ。

 日本で初めての「涼しくて快適な冷房車」は、激しい私鉄間の競争が生み出した。

 しかし、戦中から戦後の長い間、冷房車の普及はなかなか進まなかった。話題作りにはなっても、本格的なサービスには至らなかった。

“冷房”競争の先頭を走ったのは阪神だった。

 阪神は1970(昭和45)年から冷房車の導入を始めた。阪神以外の私鉄でも冷房車を導入し始めたが、当時はまだ冷房装置は高価なうえに、莫大な電力を消費するのがネックだった。

 そんな中で、阪神は1983(昭和58)年に全国の私鉄で初めて、全車両の冷房化を実現した。

「阪神は“待たずに乗れる冷房車”。阪急では涼しい電車を待たなあきません」と宣伝したとか、しなかったとか。

 一方で、冷房を効かせてただただ冷やせばいいというわけではなかった。「冷房が効き過ぎて体が冷える」という乗客のために、日本で初めて「弱冷房車」を考え出したのは京阪だった。1984(昭和59)年に導入した弱冷房車は、あっという間に全国に広がった。

 関西の私鉄の「派手な競争」の陰には、こんなこまやかな心遣いがたくさんあった。

日本で最も長く走ったテレビカー(京阪)

 戦後、最も失意に沈んだのは京阪だった。

 戦前の京阪は、飛ぶ鳥を落とす勢いで“京阪王国”の建設に向けて爆進した。

 ところが……。

 特急「燕」を追い抜いて話題になった新京阪線(大阪・天神橋‐京都・大宮)を阪急に持っていかれた。

 名古屋と京都を結ぶ「直通特急」計画が頓挫した。

 阪神電鉄との合併話は幻になってしまった。

 経営参加していた阪和電鉄(大阪‐和歌山)を南海に持っていかれた。

 奈良電気鉄道(京都‐奈良)をめぐる近鉄との買収合戦に敗れた。

 2府6県にまたがる“京阪王国”の野望は夢と消え、残ったのは京阪本線と京都‐大津を結ぶローカル線だけだった。

 カーブの多い京阪本線は、スピード競争では阪急や国鉄に勝てない。利便性と快適性、そして京都ブランドを最大限に利用して新たな戦いに挑んだ。

 その中でも特筆すべきは「テレビカー」だ。

 京阪といえばテレビカーといわれるほど、関西では人気を集めた。

 日本でテレビの本放送が始まったのは1953(昭和28)年2月。その1年後には京阪電車にテレビカーが登場している。

 テレビは京阪沿線の門真市に本社がある松下電器(現パナソニック)製だった。走行する電車でテレビがどのように受信できるかという実験も兼ねたという。

 当時、松下電器製の白黒テレビ1号機が29万円したという。大卒の初任給の平均が1万円ぐらいだったので、2年分の給与に匹敵する価格だ。庶民にはとても手が出ない超ぜいたく品で、街頭テレビに黒山の人だかりができた時代。テレビカーがどれだけ話題になったか容易に想像できるだろう。

 京阪特急は当時、国鉄の2等車(現在のグリーン車)並みの転換クロスシート(背もたれの向きを変えて進行方向に向かって座ることができるシート)だった。特急券は不要で、しかもテレビを見ることができるというぜいたく三昧は大いに人気を集めた。

 京阪のテレビカーへの思い入れは並々ならぬものがあった。

 1963(昭和38)年の天満橋から淀屋橋までの延伸区間は、すべて地下路線となった。せっかく大阪の中心部への乗り入れが実現したのに、始発駅の淀屋橋からテレビ受信できないのでは話にならない。

 京阪は、多額の費用をかけてトンネル内にケーブルを引いて、地下路線内でもテレビを見ることができるようにしてしまった。

 京阪のテレビカーには、小学生時代の強烈な思い出がある。

 テレビが設置されている車両には、屋根にアンテナが据え付けてあり、車体には大きな赤い斜字体で「テレビカー」と書かれていた。もうそれを見ただけでウキウキしたものだ。

 自宅で見るのとは違う。電車でテレビを見ることができるというのは全く異次元の出来事だった。

 せっかくテレビがよく見える座席に座ったのに、どんな番組を見たのかは覚えていない。それよりも、しばしば画像が乱れ、音声が途切れて、ものすごく見づらかったことだけが記憶に残っている。

 テレビが一家に1台から、一人に1台の時代となり、やがてワンセグで見ることができるようになった。人気を集めたテレビカーにも終焉の日はやってくる。

 2009(平成21)年から順次、テレビの撤去が始まった。車内では、スマホで思い思いに動画を見たり、ゲームを楽しむ乗客が日に日に増えていった。

 2013(平成25)年にはすべてのテレビカーの運用が終了した。

(第4回に続く)

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