他者を攻撃することを目的としたネット上での発信で心を痛めたり、その果てに自ら命を絶ったりという、許容しがたい悲劇が起きている。とりわけ昨年11月の兵庫県知事選のように人々が分断された政治状況では、一方の支持者が群れとなって反対側の政治家などへと批判を集中させる例が際立つ。
こうしたバッシングの標的になった時にいかに対処すべきなのか。批判の集中砲火を浴びる“地獄”を経験した1人が、参議院議員の鈴木宗男氏だ。政界の中心的な存在だった2002年1月、国際会議へのNGO代表の出席拒否問題に関与した疑惑が持ち上がったことをきっかけに、国会でさまざまな問題の追及を受けた末に逮捕され、文字通り“袋叩き”の境遇を経験した。その鈴木氏に対処法を聞いた。
鈴木氏は中川一郎代議士秘書からのたたき上げで、1983年に衆議院議員に初当選。橋本龍太郎内閣の北海道開発庁長官や小渕恵三内閣の官房副長官をつとめるなど権力の中枢へと上り詰めつつあった時期に、“疑惑の人”となった。
「2002年1月から、テレビのスイッチを入れれば“宗男の疑惑”、新聞や週刊誌をひらけば“宗男の疑惑”というバッシングのオンパレードで、新聞や雑誌を見るのも嫌になるほど。気が滅入ったことは事実です。
それでホテルに避難したのですが、この時、“発作的に宗男がよからぬことを考えるかもしれない”と心配した女房が同じ部屋に泊まってくれました。そして、寝る時には、私の腕と彼女の腕を紐でしばった。トイレにいくときでもなんの時でも気づくようにして、一人にさせまいとしたんです。
私には“負けてたまるか”と強気のつもりでも、ハタから見ていると“目が死んでいる”と感じていたんですね。確かに不信感でいっぱいだったから」
政治家というのは「攻撃すると、はね返ってくる」
2002年6月、あっせん収賄の容疑で逮捕され権力の座から滑り落ちた鈴木氏は無罪を主張したが、有罪が確定。議員失職し、1年間服役した。また、約25年前の当時にSNSはなかった。これらの点は兵庫県知事選の当事者たちとは異なるが、共通点もある。鈴木氏の政治的攻撃が大衆の反撃としてはね返ってきたこと
鈴木氏によると、バッシングは、疑惑が持ち上がる半年前、小泉内閣発足の立役者で当時人気絶頂だった外務大臣の田中真紀子氏に対して国会で質問を始めた時から始まっていたという。
「田中批判の尖兵だった私の事務所には連日、“田中真紀子さんに質問するとは何様か”“北海道の田舎者が”などと書いたファックスが届いていました。しかも、何かのシンジケートでもあるのか、同じ文章で何枚も何枚もくる。2002年になって小泉首相が田中氏を更迭すると、それについても人事を決めた小泉じゃなしに、“鈴木宗男がけしからん”という批判になった。これには参りました。
政治家というのは攻撃すると、かえってくるんですよ。SNSはないけれど同じなんです。それは認識しておかないといけない」
そして前述のようにホテルに身を寄せることにもなったが、支えたのは妻だけではなかったようだ。
「妻が一緒でない時は息子がいてくれました。当時、高校1年でカナダに留学していた娘の貴子(現・衆議院議員)が毎日、『お父さん、権力と戦え!』『お父さんほど働いた人はいないんだから、自分の過去を否定するな』とペン書きしたメッセージをファックスで送ってくれました。
実は当時、私は私で、娘が心配でした。情報がない海外にいて、父親が窮地に追い込まれている。自暴自棄になったらどうしようと案じていたのに娘から激励されて、それが私の気力の源になった」
多様な意見はあっていい。だけど…
しかし、そこまで気丈になれる人ばかりではないはずだ。
「強いバックボーンは何かといえば、正直であることですよ。政治家のなかには名前を売るために強いことを言ったり、パフォーマンスで目立つようなことを言ったりする人はいます。それを私はよしとしない。真実を知らしめるんだと淡々と平常心で語ることです。政治家にとって言葉は命ですから」
鈴木氏は毎日ブログを更新するマメさでも知られる。23年前にSNS発信ができる環境があれば、「もっと反論の機会があったなと思う」とその効用を認めつつ、「元兵庫県議が逮捕される予定だった」といった事実無根の内容を投稿したNHK党の立花孝志氏や、それを鵜呑みにする支持者の存在に、「ある種の危機感を覚える」とも語った。
「日本は、民主主義だから多様な意見があっていいと思います。ただ嘘やデタラメや作り話は許されない」という鈴木氏の言葉は、当然の理でありながら、今あらためて重く響く。
■取材・文/広野真嗣(ノンフィクション作家)