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オコチャ、カヌ、ババヤロ…“スーパーイーグルス”は天高く舞っていた。国民が血を流す裏側での悲痛な戦い

REAL SPORTS 2024年5月31日 2時30分

独裁政治による衝突、ピッチ外での暴動、宗教テロ、民族対立……。いまなお様々な争いや暴力と常に隣り合わせのなか、それでもアフリカの地でサッカーは愛され続けている。われわれにとって信じがたい非日常がはびこるこの大地で、サッカーが担う重要な役割とは? 本稿では、自身も赤道ギニアの代表選手として活躍し、現在はサッカージャーナリストとして活動する著者が書き上げた書籍『不屈の魂 アフリカとサッカー』の抜粋を通して、アフリカにおいて単なるスポーツの枠に収まらないサッカーの存在意義をひも解く。今回はナイジェリア代表の世界の舞台での躍進と、テロの標的になった国民が血を流す裏側で胸を張って戦った“スーパーイーグルス”の姿について。

(文=アルベルト・エジョゴ=ウォノ、訳=江間慎一郎/山路琢也、写真=アフロスポーツ)

DNAに刻まれた遺伝子によるナイジェリア人の優越性

ナイジェリアの人口はおよそ2億人。アフリカでもっとも人口が多い国だ。多様な文化、多数の民族、イスラム教とキリスト教に分かれた双頭の宗教、いまだに塞がらない過去の傷口。

これらの事情により、このアフリカの大国を支配することは非常に複雑で困難だ。1960年まで続いたイギリス植民地時代に地下資源の石油と天然ガスが主要財源になることがわかったが、それが原因で権力争いが生じ、深く根を張って根絶が困難な汚職を助長し続けている。

ナイジェリア人のDNAに刻まれた遺伝子のおかげで体格に恵まれているため、スポーツはいつも国の誇りの大きな源泉であり続けてきた。ナイジェリアのスポーツ選手は、生まれついての爆発力、苦痛に対する並外れた抵抗力、豊富な運動量を可能にする筋肉質な体に恵まれ、いつも抜きんでた活躍をしてきた。

サッカーでは、ナイジェリアはこの優越性を1990年代半ばまで示すことができなかった。

1980年に開催国となったアフリカネーションズカップ(CAN)を除いて、隣国のザイールやカメルーン、ガーナ、コートジボワールに対して優位に立てなかったし、ましてや北アフリカのライバルたちに対しては目も当てられない状況だった。しかし“スーパーイーグルス”の黄金時代をこじ開けることになるユース年代の選手権が開催された。

それは1993年に日本で開催されたFIFA U-17世界選手権だ。そこに現れたナイジェリア代表は才能ある選手にあふれ、名誉挽回の意欲に燃えたチームだった。質の高い選手としてディフェンダーのセレスティン・ババヤロ、ミッドフィルダーのウィルソン・オルマ、フォワードのヌワンコ・カヌを擁し、同選手権では最初から最後まで他のチームを圧倒し、決勝戦ではガーナを粉砕した。そして、大きな勝利を繰り返してサッカー界の頂点に立ちたいと願うようになった。

このことは何か大きなものに育つ種となり、ナイジェリアサッカーのもっとも輝かしい時代を創出することとなった。

世界を制覇したいと願う若者たちのチームに年上の選手らは刺激を受けた。翌1994年のCANでは、ナイジェリア代表はチュニジアの地で威信を見せつけ優勝を果たした。この大会で思い出されるのは激しい闘志で得点を重ねた、今は亡き“カドゥナのバッファロー”ことラシディ・イエキニだ。このチームはアフリカ史上最高の代表チームのひとつに成長する基盤があり、5年間で世界の強豪に仲間入りした。“王子様”ペーター・ルファイがゴールを守り、オーガスティン・“ジェイジェイ”・オコチャはボールを足に縫いつけたかのようにコントロールしながら堂々とした態度で試合を支配し、敵陣ではフィニディ・ジョージが馬のように駆け回り、ダニエル・アモカチとラシディ・イエキニがハンマーのようにシュートを繰り返す。“スーパーイーグルス”は天高く舞っていた。

次の舞台は同じ年の夏に米国で開催されたワールドカップだ。この大会で、ナイジェリアはすでに黒い大陸で声を限りに叫んでいたことを、世界相手に示し始めた。それは、世界の強豪と互角に張り合えるだけの実力を身につけたということだ。グループリーグでギリシャとブルガリアを下してベスト16に進出したのだ。そこで待っていたのは勝利に飢えたイタリアだった。延長戦でPKを献上し、ナイジェリアは準々決勝に進むことなく敗退した。

ブラジル、アルゼンチンを撃破。オリンピックでの戦い

1996年、国の社会不安とサッカーへの期待のはざまで、ナイジェリア代表はオリンピックでの戦いを開始した。

グループリーグは派手ではないが効率よく迅速に通過した。準々決勝ではホルヘ・カンポスを擁するメキシコと対戦。前半にオコチャの才気あふれるシュートが炸裂し、試合終了間際にはババヤロがゴールを決め、北アメリカの代表チームに対して落ち着いた勝利を収めた。もっとも、過去に名を馳せた偉大なアフリカ代表チーム(88年のザンビア、90年のカメルーン、94年のナイジェリア自身)を定義する形容詞を探した時に、「落ち着いた」は選択肢に入らない。しかし96年のナイジェリアは十分成熟し、どのような試合状況にも適応できた。

ブラジルとの準決勝は一大スペクタクルだった。“カナリア軍団”は2年前のワールドカップ優勝時よりもさらに強力なチームだった。ナイジェリアとブラジルはグループリーグでも対戦したが、その時の試合は、当時サッカー界の期待の新星だったロナウドのゴールのおかげでブラジルが勝利した。しかしメダル獲得まであと一歩の準決勝では、まさに真剣勝負の様相を呈した。

前半戦終了時のスコアは1-3で、ブラジル人は歓喜し、スタンフォード・スタジアムのスタンドを埋める7万8千人の観衆の大半は悲嘆にくれていた。中立の観客の多くがナイジェリアの応援に回ったのだ。物語にドラマ性を加えるために言っておくと、オコチャは点差を縮めるチャンスだったPKを失敗した。どんなチームもこのような痛手の後には落ち込むものだが、ヴィクトル・イクペバが2点目を入れたおかげで乗り越えた。

そして試合終了間際、“スーパーイーグルス”はコーナー付近でスローインの権利を得た。その日は自分が主役ではないとわかっていたオコチャは両手でボールをつかんでミサイルのように投げる。ボールはゴールエリア近くに着地。その時まさに魔法のようなことが起きた。2回蹴られ損ねたボールは、ゴールに背を向けてゴールエリア内にいたカヌの足元へと転がってきたのだ。背後ではブラジルのゴールキーパーであるジーダがカヌのうなじに荒い息をはいている。その時、不可能に近い状況を打開するための1、2秒をカヌにプレゼントしようと時間が止まったかのようだ。このナイジェリア代表のストライカーは、ボール目がけて滑り込んでくるジーダの上を越すように足の甲でボールを軽くリフトすると、体を反転させながらゴールマウスへとシュートを決めた。

重大な局面に、ひらめきの女神が創造した作品のようだ。3-3の同点。カヌは満面の笑みで両腕を後ろに広げて走りながら、喜びを体全体で表した。しかしこれだけで終わらない。今夜のヒーローが再度ゴールを決めて試合を勝利で締めくくった。盛大なお祭り騒ぎだ。決勝戦に駒を進め、オリンピックのメダル獲得は確定だ。

栄光までまだあと一段ある。決勝戦の相手は、南米のもうひとつの怪物アルゼンチンだ。クレスポのセンタリングから、“ピオホ(シラミを意味するクラウディオ・ロペスの異名)”ことロペスのヘディングシュートにより“アルビセレステ(白色と水色を意味するアルゼンチン代表の愛称)”が先制。しかしナイジェリアはびくともしない。アルゼンチンは攻め続けたが、絶好の瞬間にまたもやアフリカサッカーの魔法が現れた。カヌの右クロスからババヤロが値千金のヘディングゴールでカバジェロの守るゴールを撃ち抜き、前半のうちにアルゼンチンに追いついた。しかし後半になってクレスポにPKを決められて、再びリードを許してしまうが、それも束の間、誰もが予感していた通り、しばらくしてアモカチが同点のシュートを放つ。

1993年のU-17世界選手権でまかれた種が最高の輝きを放ちながら花開いていた。最終的に試合は3-2でナイジェリアが勝利。選手の首にかけられた金メダルは世界じゅうで称賛を浴びた。しかし、これまで何度も起きてきたように、外部要因がこの国のサッカーの行方に直接インパクトを与えることになる。

「サッカーボールはイスラムを信仰する市民を分断する障壁」

ボコ・ハラムは、アフリカ西部で活動するイスラム過激派テロ組織である。宗教を言い訳に使い、また「宗教の浄化」を主張しながら、ナイジェリア一帯で残虐な行為を犯している。市民へのテロ行為は2011年以降暴力の度合いを増し、ナイジェリアでは200万人を超える国内避難民を生み出し、ニジェール、チャド、あるいはカメルーンへ難を逃れた亡命者は25万人を数える。もっとも衝撃的な出来事のひとつが国の北東部に位置するチャドで起きた、女学校の生徒300人を誘拐した襲撃事件だ。女生徒らはトラックに載せられどこかへ連れ去られた。この誘拐事件は各紙の1面を飾り、世界じゅうで報道され、後日ソーシャル・ネットワークでは#BringBackOurGirls(私たちの少女を返して)というハッシュタグであふれた。その後、西洋諸国の外で起きる残虐事件の大半と同様、そのボコ・ハラムの事件も世界で忘れ去られた。

そこから近い町バガでは、その数週間前にこのジハード主義組織の手によって100人のキリスト教徒が殺されている。テロリストたちはナイジェリアの北東部を支配下に置き、さらに支配地を拡大しようとしていた。

“スーパーイーグルス”は、国内で相次ぐ残虐事件のため、胃に重みを感じながら2014年のワールドカップ・ブラジル大会に臨まなければならなかった。ワールドカップでは偉大な役割を果たすだけでなく、国民の心からテロへの恐怖心をそらす一助となるべく戦わなければならない。ナイジェリアは前年(2013年)に開催されたCANで優勝を果たし、サッカー人気が復活したことでジハード主義のイスラム過激派グループをいらつかせていた。

当時のボコ・ハラムの指導者アブバカル・シェカウは、いくつかのビデオを流布させ、その中でサッカーは西アフリカ全土を堕落させている邪悪なものだと決めつけた。シェカウは言う、「サッカーボールはイスラムを信仰する市民を分断する障壁なのだ」と。コーランのどの一節にもシェカウの声明を補強するようなことは書かれていなかった。しかしこの男の指揮下にある組織の反応はすさまじかった。ワールドカップの試合が行われている間に、ナイジェリア各地で自動車爆弾が炸裂。通りの近くのオープンスペースに設置されたスクリーン周辺に殺到した住民がブラジルで行われている“スーパーイーグルス”の試合を観戦していると、相次いでテロの標的となって修羅場と化した。国民の血が流されるたびに、代表チームの選手はますます神経をすり減らした。

“スーパーイーグルス”にとって致命的だった負傷

それでもナイジェリア代表は確固たる足取りでワールドカップを歩み続けた。グループステージを中盤のオジェニ・オナジとジョン・オビ・ミケルの働きやエマヌエル・エメニケの得点力のおかげで突破すると、ベスト16での対戦相手はフランスということもあり好試合が期待された。国民を喜ばせたいという気持ちと、試合が行われるたびにナイジェリアでテロが起こるという苦悩のはざまで、“スーパーイーグルス”はブラジリアでの極めて重要な試合に臨まなければならない。

試合中、ゴールキーパーのビセント・エニェアマは躍動感あふれる活躍を見せた。特にポール・ボグバのボレーシュートをはじいたアクロバティックなセービングは見事としか言いようがない。後半になるとナイジェリアが試合を支配し、野心にあふれたその姿は1996年のオリンピックのチャンピオンチームを彷彿とさせた。ビクター・モーゼスの疾走、エメニケのシュート、エニェアマのセービング。

オナジの姿も際立ち始める。正確な左足を武器に中盤を支配していた。オナジが生まれ育ったジョス市(ナイジェリア中央に位置する都市)はその約1か月前に起きたテロ事件[訳注:118名が死亡するテロ事件が2014年5月20日に発生。ボコ・ハラムの犯行とみられている]によって、悲しみに打ち沈んでいた。オナジとしてもこの大会には並々ならぬ思いで臨んでいた。しかし後半途中、そのオナジにマテュイディが激しくタックルしてナイジェリアじゅうを震撼させた。無情なことに、オナジは脛骨を骨折して負傷退場となったが、その骨折の痛みは、仲間たちが前に進み続けることを助けられないがために感じる痛みの比ではなかった。

オナジの不在は、“スーパーイーグルス”にとって致命的だった。結局、試合に敗れてブラジルを後にした。ただし、胸を張って。

ナイジェリア出身で、同国の著名な文筆家の1人であるチママンダ・ンゴズィが語っているように、ナイジェリアは「脆い何本かのピンに支えられた、いくつもの民族の巨大な混合体」だ。この国の人々は、2億人もの人口を抱える国をいつ粉々に吹き飛ばすかわからない爆発性を秘めた均衡の中で生き延びながら、“スーパーイーグルス”が天高く舞うことを夢見ている。

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(本記事は東洋館出版社刊の書籍『不屈の魂 アフリカとサッカー』から一部転載)

<了>

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[PROFILE]
アルベルト・エジョゴ=ウォノ
1984年、スペイン・バルセロナ生まれ。地元CEサバデルのカンテラで育ち、2003年にトップチームデビュー。同年、父親の母国である赤道ギニアの代表にも選ばれる。2014年に引退し、その後はテレビ番組や雑誌のコメンテーター、アナリストとして活躍。現在は、DAZN、Radio Marcaの試合解説者などを務める。

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