現在、イングランド・プレミアリーグの強豪トッテナムを率いるアンジェ・ポステコグルー監督。その超攻撃的なサッカーは“アンジェボール”と称され、いまや世界中のサッカーファンを魅了している。オーストラリア代表監督として2015年に母国をアジアカップ優勝に導くと、2018年に横浜F・マリノスの監督に就任。選手やクラブ関係者から懐疑の目を向けられながらの難しい船出となったが、2019年にはチームを見事15年ぶりのJ1優勝に導いた。そこで本稿では書籍『アンジェ・ポステコグルー 変革者』の抜粋を通して、ポステコグルーの日本時代に焦点を当て、その人物像や、一貫してブレない指導哲学に迫る。今回は、ポステコグルーが日本サッカーに及ぼした影響、そして日本がポステコグルーに与えた影響について。
(文=ジョン・グリーチャン、訳=高取芳彦、写真=アフロスポーツ)
日本人の控えめさを多くの外国人は情熱のなさと誤解する
2018年に前シーズンに降格争いをしていた横浜F・マリノスの監督に就任し、翌2019年にJ1リーグ優勝に導いたアンジェ・ポステコグルーが日本サッカーに影響を及ぼしたのが事実なら、日本サッカーがポステコグルーという監督に影響を与えたことも明白な事実だ。
そう言える理由は、古橋亨梧や旗手怜央、前田大然といった選手の獲得がセルティック躍進の大きな要因になったことだけではない。Jリーグで得た学びや、自分のメッセージを研ぎ澄ますスキルは、今日までのポステコグルーの仕事ぶりによく表れている。日本での経験によって、指導者としてレベルアップしたのだ。また、日本での成功は、彼のチームづくりの基本がさまざまな場所、そして新たな環境でも通用するという証しになった。ブリスベンと横浜の両方で通用したのであれば、グラスゴーでも、さらにはロンドンでも通用するだろう。
初めて日本社会に加わった人が直面する文化面の難しさについて、通訳としてポステコグルーを支えた今矢直城(現栃木シティFC監督)に話を聞いた。それによると、新監督のポステコグルーとヘッドコーチのピーター・クラモフスキー(現FC東京監督)は新たな環境にすぐに適応した。日本人の控えめさは有名だが、多くの外国人はこれを情熱のなさと誤解する。だが、ポステコグルーはこの感性に敬意を払い、ありがちな勘違いに陥ることは少しもなかった。
「違う国に行っただけで、いい監督、いい指導者、いい人であることが変わるわけではありません」。今矢はそう断ってから説明を始めた。
「しかし、文化が違いますから、考えたほうがよさそうなことはあります。仮に一般化できるとしたら、アジア人よりも西洋人にとってのほうが、違っていることはあるでしょう。とはいえ、結局は人との関わり合いの話になります。選手たちは時間とともに、アンジェが他人の模倣ではなく、本物であることに気づいていきました。そこができれば、メッセージは浸透します。相手が日本人だからといってアンジェがその本物さから離れ、やり方を変えようとしていたら、うまくいかなかったでしょう。
最初の段階で『そんなの日本では無理だ。それは日本のやり方じゃない』という声に一つずつ耳を傾けることもできたでしょう。でも、そうしていたら、仕事に対するアンジェとピーターの感覚や感性、つまり彼らを優秀な指導者たらしめている要素は失われていました。だから、本物であることが大事なのです。最初の数日で、そう感じました。
これは傲慢さとは違います。彼らはクラブに入るなり『これが俺のやり方だ。嫌なら去れ。言うとおりにやるか、出ていくか、二つに一つだ』と迫ったりはしませんでした。そういうことではない。でも、自分を曲げることはしませんでした」
「開幕4試合目の浦和レッズとのアウェイ戦をよく覚えています」
今矢は続けた。
「私が選手や指導者を経験していたことは、間違いなく役立ちました。アンジェのメッセージを字面どおり日本語にするだけなら、可能かもしれません。でも、人間を相手にしていますから、メッセージの中身を適切に浸透させる必要があります。ときには行間を読む必要がある。『アンジェは何を言おうとしているんだ? 何が言いたいんだ? 直訳じゃ本当のメッセージが選手に伝わらないぞ』と考えないといけない。だから、選手の感覚を知っていることが役立つんです。元選手ですから、監督の言葉選びの影響力はわかっています。いい影響もあれば、おそらく悪い影響もある。
特定の試合や一日が分岐点になったわけではありませんが、開幕4試合目の浦和レッズとのアウェイ戦をよく覚えています。レッズは今も強豪ですが、当時も強かった。それまでの成績は1分2敗。『攻めるぞ』とか『勝ちにいくぞ』とか、ほとんどの監督が正攻法を口にするかもしれません。でも選手はどうか。引き分けで勝ち点1を取るか、内容が悪くても勝てば監督は満足するだろうと感じるものです。
アンジェはそれを拒みました。自分たちがすべきプレーを断固貫くことも、そこから外れるプレーを受け入れないことも、誰でもわかりました。彼は後退しようとしません。ほんの少し妥協することは、監督としては簡単です。でも、アンジェは口先だけじゃなかった。選手はもう、これが自分たちのすべきプレーなんだ、と感じていましたよ。
1年目、リーグ戦で勝ち始め、リーグカップ決勝(湘南ベルマーレに0対1で敗戦)に進んだときに変化がありました。シーズン半ばまでは、まだ全員が信じているとは言えませんでした。しかし、1人が2人となり、2人が6人、そして7人となり、選手が自分たちのプレーに本当の情熱を見せ始めました。日本サッカー界のすべての人に対し、こんなやり方ができるのだと証明したがっていました。それがアンジェのメッセージであり、そのメッセージが選手の心の琴線に触れたのです」
「アンジェが私たちに望んでいたのは、一番であること」
もう一つ、ポステコグルーのぶれのなさを物語るエピソードがあった。
「アンジェはいつも揺らぎません。試合に勝ったときでもです。たとえば鹿島アントラーズとのホーム戦。3対0で勝ったのですが、アンジェはうちのプレーがよくなかったと考え、ロッカールームで選手たちを叱りつけました。きっと、これまで様々なチームで何度もあったことですよね? 自分たちだけじゃないとわかってよかった。アンジェを支えようとする者として、あの光景を見られて本当によかったです。彼が常に自分の言葉に誠実であることを、改めて確認できました。あれは3対0で勝った試合でしたから。勝ちはしても、すべきプレーをしなかった。継続的に成功するには、自分たちのプレーをし続ける必要があるということが、彼にはわかっていたんです。
アンジェが私たちに望んでいたのは、一番であることです。自分のポジションや役割において、クラブやチームの一番になるよう努力しなければなりません。日々向上するため努力しなければなりません。メディカルスタッフでも、通訳でも、コーチでも、今の自分の仕事に満足し、翌日や翌週の向上を目指さなくなったら、その先は長くないでしょう。単純に、そこは絶対条件であり、そこに議論の余地はないと考えます。そうして前に進む気持ちがなければ、アンジェの下では働けません」
きまってかける言葉「ここまで支えてくれた人の顔を思い出せ」
ポステコグルーは自分自身にも同じルールを課した。自分の努力について、これで十分だと思うことを拒絶したのだ。彼は日本にいる間、自分自身に手加減することを考えもしなかった。言葉の壁を言い訳にして、誤解される余地のなかったメルボルン時代ほど選手を掌握できないのは仕方ない、と簡単に割り切ることはありえなかった。
突き詰めれば、マネジメントの大部分は何を言うか、あるいは何を言わないでおくかの心理戦だ。プロ指導者のスタートラインに立とうという者なら誰でも、チームビルディングや人間関係の重要性に関する専門家の解説や、「自分が考えただけでは選手が学んだことにはならない――誰もが自分の経験というレンズを通して世界を見ている」といったタイトルの講義を聞くことになる。
つまり、大事なのはメッセージであり、メッセージを届けるための言葉一つひとつだ。ポステコグルーは、そのすべてを第三者のフィルターを通して伝えなければならなかった。そんな状況では、彼の有名な言語表現力が少しばかり弱まることは、避けられなかったのではないだろうか。
しかし、今矢は“ロスト・イン・トランスレーション”はなかったと断言し、次のように強調した。
「アンジェのスピーチには、心を動かすものがありました。ものすごく感動的で、聞く者を鼓舞する力がありました。たしかに、監督のなかには同じようなスピーチを繰り返す人もいますし、メッセージを浸透させるために反復が必要な場合もあります。そこにはテーマがある。しかし、アンジェは聞く者を飽きさせず、サッカーをすることの素晴らしさを巧みに強調していました。
アンジェはよく、子どもの頃を思い出すよう選手に言っていました。5歳でボールを蹴り始めたときのことです。『兄ちゃんや弟にあっさりボールを渡したか? それとも取られないようにしたか? 公園でサッカーをしていたとき、ボールは自分の足元にあっただろう。それを取られまいとしたはずだ。私たちはボールをキープしなければならない。相手がボールを持っているのなら、奪いにいかなければならない。子どもの頃に戻るんだ』。そういうスピーチが、選手の感情を引き出したんです。いつも何かしら物語を用意していました。
自分一人の力でサッカー選手になる者はいないとも、よく言っていました。指導者や親など、必ず誰かの助けがあった。だから、F・マリノスでデビューを迎える選手がいるときは決まって、『ここまで支えてくれた人の顔を思い出せ。今日はその人たちのためにプレーしろ』と言うんです。気持ちのたかぶる言葉でした」
監督としての彼の成長において、不可欠な役割
ポステコグルーは冒険を求めて日本に行った。旅立ちはその3年半後。理由はヨーロッパでのチャンスを欲したことだった。
世界の向こう側で監督のポストを探るという決断は、セルティックから就任の打診を受けるずっと前にエージェントに伝えていた。ポステコグルーの監督招聘を検討しながら、結局見送りを決めたビッグクラブは一つや二つではなかったはずだ。ブリスベンやメルボルンでの成功は言うに及ばず、日本でしか実績のない監督にリスクに見合う価値はないと判断したのである。
シティ・フットボール・グループのある幹部の言葉を借りれば、ポステコグルーは“本物のなかの本物”だ。
彼がセルティックで収めた成績とその後のトッテナム監督就任を目にして、招聘を見送ったクラブの会長や最高経営責任者たちは、後悔に苛まれたかもしれない。もっとよく見ていれば、と。そうだとしたら、ポステコグルーの日本における経験の価値は、彼の成功によって再評価を迫られる。
日本での日々は、オーストラリアからヨーロッパへの旅における長めの乗り継ぎ滞在などではなかった。監督としての彼の成長において、不可欠な役割を果たしたのだ。
【連載前編】ポステコグルーにとって、日本がこの上なく難しい環境だった理由とは?「一部の選手がアンジェに不安を抱いていた」
【連載中編】「変革者」ポステコグルーが日本を愛した理由。横浜F・マリノスで成し遂げた“アンジェボール”
(本記事は東洋館出版社刊の書籍『アンジェ・ポステコグルー 変革者』から一部転載)
<了>
横浜F・マリノスをACL決勝に導いた“楽しむ”姿勢。変化を生み出したキューウェル監督の「選手目線」