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リヴァプール主将の腕章の重み。ジョーダン・ヘンダーソンの葛藤。これまで何度も「僕がいなくても」と考えてきた

REAL SPORTS 2024年7月5日 2時21分

9シーズンにわたって指揮をとった名将ユルゲン・クロップの退任により、ひとつの時代に終わりを告げたリヴァプール。本稿ではクロップとともに新たな黄金時代を築き上げたジョーダン・ヘンダーソンの自著『CAPTAIN ジョーダン・ヘンダーソン自伝』の抜粋を通して、主に2015-16シーズン以降にリヴァプールが歩んだ軌跡に焦点を当てて振り返る。今回はクラブのレジェンドから腕章を引き継いだ新キャプテンの葛藤と苦悩について。

(文=ジョーダン・ヘンダーソン、訳=岩崎晋也、写真=AP/アフロ)

「なぜ僕ひとりがトロフィーを受けとらなくてはならないのか」

僕は感情を汲みとるのが上手なほうだと思う。ただしそれは人の気持ちであって、自分の気持ちとなるとそうはいかない。そのせいでいろいろな経験をしてきた。人を助けることには積極的でも、助けられる側になるのは苦手だ。人の問題には手を貸したいと思うのだが、自分のこととなるといつも、殻に閉じこもってひとりで処理しようとする。

自分の問題は人に触れさせず、人の問題には助け船を出す。それが僕のやりかただった。選手生活のなかで何度か起こったごたごたも、たぶんそれが原因だ。僕はときどき、ほかの人には些細と思われるようなことが気になってしかたがない。自分の正しさを証明するためにキャリアを過ごしてきたと感じることがあるのも、きっとそのせいだろう。

僕という人間にはさまざまな要素が奇妙に混ざりあっている。自信はないわけではない。自分はいいサッカー選手だと思う。仕事量の豊富さは認められていると思うし、与えられた才能を十分に生かしていることを誇りに思う。また、僕にとってサッカーはフィールドで走りまわっているときだけのものではなかった。それはわずかな部分にすぎない。試合でポジションについている時間以外でも、いつもリヴァプールやイングランド代表のために働いてきた。

とはいえ、自分は手にした栄光や賞賛に値するのかという疑いはぬぐいされない。リヴァプールで優勝トロフィーを掲げたときは、ユルゲン・クロップ監督こそこの役目にふさわしいと思ったし、ジェームズ・ミルナーもともにこのステージに立つべきではないかと考えていた。

これはみんなでやったことだ。誰かひとりの力でトロフィーを勝ち取ったわけではないのに、なぜ僕ひとりがトロフィーを受けとらなくてはならないのか。

これまで何度も「僕がいなくても」と考えてきた

2019年6月、マドリードでトッテナムを破り、UEFAチャンピオンズリーグで優勝したときは、トロフィーを掲げてほしいとクロップに言った。優勝できたのは、あなたがチームの進むべき道を示し、全員でそれに従ってきたからこそだ、と。ところが、その申し出は拒絶された。ミルナーには、ステージで一緒に並んでトロフィーを受けとってほしいと言った。だが、やはり断られた。

僕はこれまで何度も「僕がいなくても」と考えてきた。ここ数年、リヴァプールがトロフィーを獲得したときはいつもそう感じている。僕がいなくてもチームは優勝しただろう、と。

僕はルイス・スアレスでもスティーヴン・ジェラードでも、フィルジル・ファン・ダイクでも、モハメド・サラーでもない。僕がいたから勝ったわけではない。当然、自分の役目は果たしてきたが、僕はチームが勝つ究極の要因ではなかった。僕はそう考えてきたし、プロになってからずっとその考えは変わっていない。

僕が主将でなくても、チームに所属していなくても、リヴァプールは同じように優勝できただろう。

たしかに主将として高く評価されるかもしれないが、チームが上向いたのはクロップのおかげだ。2015年10月の監督就任時から、選手たちは彼の方針を受け入れた。既存の選手たちは彼のもとで向上した。新加入の選手たちはそれまで以上のレベルに達した。

クロップのもとで僕がキャプテンマークをつけたが、もしかりにミルナーが主将に指名され、僕はチームを去っていたとしても、クロップがチームにもたらした強烈な野望と信念で、リヴァプールは同じように成功を収めていただろう。少し自分に厳しい評価かもしれないが、ほんとうにそう感じているのだ。

スティーヴン・ジェラードから受け継いだ腕章

2015年の7月、スティーヴン・ジェラードがロサンゼルス・ギャラクシーに移籍したとき、リヴァプールの主将に任命された。彼がしてきたことをそのまま引き継ぐことはできないというのは明らかだった。スティーヴィーはリヴァプールのアカデミー出身で、クラブとも密接な関係にあった。また、エムリン・ヒューズやフィル・トンプソン、グレアム・スーネスといったレジェンドとも同じ道を歩むことになるが、伝説の主将たちと自分を比べはしなかった。僕は自分なりにこの役目を果たさなければならない。

まず、間違いなくできるのは更衣室でチームの選手全員の助けになることだった。仲間に手をさしのべることで、頼りがいがあり、困ったことがあれば話に来ることができる存在にはなれるはずだ。チームメイトたちに自分を捧げる――その点は、いまに至るまでずっと変わっていない。

主将として、僕はそれを方針とした。そのおかげで、ピッチの内外で全員の力を引き出すことができたと思っている。僕は誰とでも深く結びつくことができる。スーパースターでない僕は、すべての選手に最高のパフォーマンスを発揮してほしかったし、仲間だと思ってほしかった。みんなより高い位置にいて、近寄りがたい人物になるのは嫌だった。

いつでも、勝利を目指すために、ほかの選手たちとよい連携を築きたいと思ってきた。選手たちの向上の役に立ちたかった。スティーヴィーがしてきたことすべてを代わりにやることはできない。それは主将になったときからわかっていた。それを目指してもいなかった。ともかく、自分らしくふるまうしかない。また、主将として必要な、自分よりも他者を優先できるという資質は備わっていた。ちなみにスティーヴィーは、その資質を持ち、しかもチームの象徴だった。

「お先真っ暗だ」――外からは、きっとそう見えていた

ここにも僕の矛盾がある。リーダーとして賞賛されるのは心地よくないのに、いつもリーダーでありたいと願ってきたし、またその資質もあった。イングランドのU-21でも、サンダーランドのユースチームでも主将を務めていた。どこにいても、僕はリーダーとしての素質があると認められてきた。

僕はいつも、すべてをきちんとしようとした。サッカーを愛し、正しい生きかたをしてきた。だからその点では模範となることができた。ピッチの上では、いつもリーダーでありたかったが、主将だからといって特別なことはしたくなかった。求めたのは仲間たちが揺るぎなく結びついていることだ。チームメイトたちが僕を見て、「俺たちはキャプテンを信頼してる。俺たちは彼のために死んだってかまわないし、彼は俺たちのために死をもいとわない」と思うような絆で結ばれたチームを作りたかった。そんなリーダーになろうと思ってずっとやってきた。

リヴァプールの主将に任命されたとき、告知は控えめにしてほしいとお願いした。動画はなしで、短いコメントと数枚の写真だけにするようクラブに伝えた。そのころ、主将交代があったクラブはよく、街に出て派手な告知用の動画を撮影し、ソーシャルメディア・チャンネルに投稿していたが、それはまったく僕らしくなかった。そんなことは真っ平だったし、考えるだけでも嫌だった。スティーヴィーが去ってしまったという事実を受けとめるだけでもファンにとっては大きなことなのに、僕が彼の後を引き継ぐのを騒ぎたてることなどできなかった。

外からはどう見えるかということはわかっていた。おそらくはリヴァプール史上最高の主将であり、過去最高の選手のひとりであるスティーヴン・ジェラードから、主将がジョーダン・ヘンダーソンに変わる。「どうなってしまうんだろう」と、人々は言うだろう。「お先真っ暗だ」――外からは、きっとそう見えているだろう。自分では、チームをまとめるだけの力はあると感じていたが、誰もが不安だったはずだ。最初は、キャプテンの腕章をつけると少し居心地が悪く、落ち着かなかった。

たぶん、僕が求めていたのは…。アダムにすべてをさらけ出した

リヴァプールに加入したのは2011年のことだが、とくに最初の数年は、深い闇のなかにいることもあった。プレーが悪かったり、求められる水準に達していなかったりした。リヴァプールがサンダーランドに支払った移籍金に見合った働きではなかった。そのため、練習のあと、リヴァプールから数キロ北にあるフォームビーの自宅に帰ると、サッカーのことについてはパートナーのレベッカ(ベック)とも誰とも話さなかった。

そのころは、自分だけでなくベックにも、あまり友人がいなかった。僕たちが知りあったのは11歳のときで、一緒にサンダーランドからここに引っ越してきたばかりだった。ふたりとも、まだ20代に入ったばかり。彼女には誰も知り合いがいないうえに、家のなかでは僕が不機嫌にしていた。なぜ僕に我慢できたのか、いまもときどき不思議に思うくらいだ。

最近、あのころの暮らしや、僕の機嫌の悪さについてどう思っていたのか聞いてみた。すると、陰気な人だと思っていたという答えが返ってきた。まさにそのとおりだ。僕は落ちこむと、チームの誰にもその理由を話さなかった。重荷になってしまうと思って、殻を閉ざしていた。みんなそれぞれにやらなきゃならないことがある。誰だって問題を抱えてる。僕が怪我をしたとか、調子が悪いとか、そんな話はされたくないだろう。そんなことを思って、僕は決して感情を打ち明けようとしなかった。少なくともあのころはそうだった。

当時のことを、いまでは笑い飛ばせるようになった。クロップ在任期間の前半だった2017年11月に、チャンピオンズリーグのグループリーグでセビージャに3点リードを追いつかれて引き分けに終わったとき、僕は自分を責めた。そうした事態を食いとめるべき中盤の底でプレーしていた自分がこんな結果を招いたのだと失望した。

僕はすべての責任を自分で背負いこんでしまったのだが、それはチームに不運が重なったことの結果だった。こんなことがあると、さまざまなことを考えてしまうものだ。ともかく、僕はそうだった。このシステムの守備的ミッドフィールダーとして十分な能力が自分にあるのか。どうしてこれほどのゴールを献上し、ぶざまな姿をさらしてしまったのか。持てる能力を発揮するために、何をすればよいのか。

僕はこうした問いへの答えを求めていた。チームの力になりたかった。誰かにこのことを話したかった。

だから翌日に、いちばん親しいチームメイトのひとりであるアダム・ララーナに、迎えに行くから一緒にトレーニングに行こうとメールを送った。アダムは聡明な男だ。率直で、いつもありのままの自分でいる。彼は何かを察したのか、車に乗りこんでしばらく黙っていたあと、「大丈夫か?」と尋ねた。僕は思いをすべてさらけ出した。

たぶん、僕が求めていたのは敬意だ。心の奥底にはいつも、もっと評価されてもいいはずだという不満があった。それを手に入れるには、これまで以上に努力しなくてはならない。

※次回第2回連載は7月8日(月)に公開予定

(本記事は東洋館出版社刊の書籍『CAPTAIN ジョーダン・ヘンダーソン自伝』から一部転載)

<了>

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