ミスをしようと思ってプレーしている子どもなんて一人もいないのに――。年々少なくなっているようにも感じるが、いまだ育成年代のサッカーの試合中に指導者の怒鳴り声を耳にする機会は多い。ミスをした選手を怒鳴りつけて、ミスを理由に交代までさせているような場面を目にしてしまうと見ているこちらまで悲しい気持ちにさせられる。一方で、その反動からか何もかもを褒めればいいという意見も出てきているという。では育成年代の指導において試行錯誤を繰り返し、欧州でも最先端の知見を持つドイツでは、育成年代におけるミスとの向き合い方についてどのように考えているのだろうか?
(文=中野吉之伴、写真=なかしまだいすけ/アフロ)
サッカーはミスにおびえながらプレーするスポーツではない
「なんで言われたとおりにプレーしないんだ!」
そうどやされて、びくっとしながらプレーをする子どもたちを見るのはとても悲しい。サッカーとは本来ミスにおびえながらプレーするスポーツでも、監督の言われた通りにプレーするスポーツでもはないはずだ。
もちろんチームにおける戦術的約束事はあるし、サッカーというスポーツを優位に進めるためのゲームメカニズムを明確に理解することは大切だ。そこに取り組みながら、でもそのことだけにとらわれるのではなく、その先で頭も心も解放して、仲間と助け合って、躍動感たっぷりにプレーできたときの充実感はとても愛おしいし、そこにサッカーというスポーツの持つ何よりの魅力があるのではないだろうか。
育成で国内外から高い評価を受けているSCフライブルクの元育成ダイレクターであるイラクシス・メタクサスがこんなことを言っていた。
「監督から言われたことや練習でやったことをそのままやるべきではないんだ。『今日は監督が〇〇と言ったからその通りにプレーをして、明日監督が〇〇とは言わなかったらそのプレーをしない』では成長がないではないか? 選手自身が試合や練習の後に自分で振り返りをして、さまざまな情報を自分でバラバラにして、自分なりに整理して、チャレンジして、最適化していくことが大切なんだ」
“サッカークラブはサッカーをするところ”
スタート地点として、サッカーは単なるボールゲームではない。これは欧州における基本的なサッカーのとらえ方だ。選手がボールを扱うスキルを高めることだけでなんとかしようというスポーツではない。グラウンド全体をとらえて、味方と相手の位置や力関係を考慮して、どのように結びつき合ってゴールへ近づき、ゴールの可能性を高めるのか、守備では相手をどのようにゴールから遠ざけ、どのようにボールを奪い、どのように失点の可能性を低くするのかを考えるチームスポーツだととらえられている。
だから、例えば子どもたちのトレーニングでリフティングばかりをすることもない。元ドイツ代表で筆者の指導者仲間であるDFルーカス・シンキビッツは「リフティングが必要ないとは言わない。アップの一環で10分くらいやる分には問題ない。でもリフティングがサッカーをする機会を奪うことはあってはならない。リフティングができないと他の練習ができないとか、試合に出さないというのは完全にNGだ」と一喝していたのを思い出す。
大げさでもなんでもなく、ドイツにおいて練習のほとんどがリフティングで終わるとか、リフティングの回数でレギュラーを決めるなんてことがもしあったとしたら、子どもたちや親からものすごいクレームが集まり、育成部長から厳重注意を受けることだろう。場合によっては解任というケースだって考えられる。理由はシンプルで明確だ。“サッカークラブはサッカーをするところ”だからだ。
ボールコントロールやパスやドリブル、シュートといったスキルが必要ないなんてことではもちろんない。丁寧なスキルトレーニングはとても大切だ。ただあらゆるスキルはサッカーというゲームへのつながりがある形でトレーニングも行われることが求められる。そのためドイツではそれぞれの年代や成長段階に応じた試合形式が考慮されるし、幼稚園児から3対3といった少人数でのゲームを何度も何度も繰り返している。
ミスはしてもいい。でもミスをしてもいいよと…
実際にサッカーの試合とは、扱いにくい球形のボールを、決して完全に平らではないグラウンドで、日常的に使用するわけではない足や頭を用いてプレーしながら、刻々と状況が変わり続ける中で、瞬時に変化に対応して、最適な選択肢を見つけ出し、適切なタイミングで決断から実践することが求められる。このように書き出し、想像するだけで難しい。人間が状況における対応力を身につけるためには経験がなくてはならず、それも認知・判断・決断・実践のサイクルを自分たちで行うことが許される環境における経験則が必要不可欠となる。
試合ともなるとどんな年代でも、どんなカテゴリーでも、どんなレベルでも、誰だって勝ちたい。本気で、全力で試合に臨んで戦うのは自然なことだろう。だからチャンスを逸したり、失点につながるようなミスが起きると思わず怒りたくなる気持ちだってわかる。特に野心的な親や指導者は、まるで子どもたちは何もかもをできるようにならなければならないと思い込んでいる人が多い。できないことがちょっとでもあると、まるですべてがダメであるかのような反応を見せたりする。でも忘れないでほしい。ミスをしようと思ってプレーしている選手なんて一人もいないということを。
一方でミスをそのままにしておいてもいいということではない。同じようなミスを繰り返しているのを黙って見てなきゃいけないわけでもない。SCフライブルクの元U-12監督ヨアヒム・エブレはこんなふうに話してくれたことがある。
「ミス“は”してもいい。でもミス“を”してもいいよと僕らが子どもたちに言うのはまた違うんだ。ミスの頻度が少なくなっていくように取り組むことが大切だ。ミスをしてしまったことはもう事実。でも次に同じようなことがあったときにそのボタンを押さないようにしなければならない。これが非常に重要なプロセスだ。修正しようと取り組んでもすぐできるわけじゃない。でもそうやろうとすることがとても大事。長い長い道のりとなることをしっかりと認識して子どもたちと向き合うことがとても大切なんだ」
ミスは誰にでも起きる。でもミスがあったときに…
時代の流れなのか、厳しい指導がダメだからもっと子どもたちを褒めましょうという声が増えてくると、これまでの反動も作用して、子どもたちの何もかもを認めて、何もかもを褒めて、という指導こそが正解という考えまで出てきてしまう。それはまた極端な話であり、何事も極端になることが最もよくない。ダメなことをしたときにしっかりと注意をする、正しい線引きをしてあげることなく、どのように子どもたちは分別を学ぶことができるのか。大人が考えることを放棄するのが子どもたちにとっていいわけがない。
ブンデスリーガの古豪1.FCケルンの元育成統括部長クラウス・パプストが興味深い指摘をしてくれたことがある。
「ケルン体育大学での指導者講習会でもそうしたディスカッションがされたことがあったんだ。『パーソナリティとはなんだ?』というテーマだった。みんないろいろと考えては意見をぶつけ合っていたけど、パーソナリティというのは、『自分でやるべきことを実行に移せる能力』のことだよ。指導者が言うことをそのまま実行する能力がサッカーでも、社会でも求められているわけではない。選手自身が何をすべきかを適切に判断し、そして自分で実行しようとするかどうかが大事なんだ。例えば、試合でうまくいかないことがあると両手をあげて不満を表す子がいる。私はそうした子たちに、『そうしたジェスチャーをすることが何かの助けになるのか?』と尋ねる。そうしたジェスチャーは自分で実行する意欲がないことの表れでしかないということを学ばなければならないんだ」
ミスは誰にでも起きる。でもミスがあったときにどんな対処をすべきか、そこからどう修正すべきかに自分自身で取り組めないと、本質的な習得にはつながらない。子どもたちはうまくいくことに関しても、うまくいかないことに関しても、経験の絶対数が相対的に大人よりは少ない。当たり前だ。子どもたちよりも何十年間長く生きていて、さまざまな経験や知見が備わっている大人のように、次の、次の、そのまた次の対処法まで考えることなんて、そう簡単にできるものではないではないか。
サッカーとはつながり合いのスポーツ
どれだけの「なんで?」と向き合うことができるか。前述のシンキビッツとのディスカッションの中でこんな話が出てきたことがある。
「息子の試合でこんなことがあったんだ。そのチームの監督はすごくダイナミックに大きな声でいろんなことを指示したがる人だ。FWでプレーしていた息子は監督から『ボールを受けたらしっかりと収めて、味方に落とすんだ』と言われていた。ある試合で息子は本当にその通りにプレーをしていたよ。だから監督は『悪いプレーではなかった』と見たかもしれないね。でも私からしたらひどいゲームだった。息子は『なんで?』と聞いてきた。
『試合中に相手DFが激しくボールを取りに来るシーンがそんなにあったか? なんのためにボールを味方に落とす必要がある? 素早くターンをしてシュートが打てるシーンがたくさんあった。後ろからのプレッシャーを感じていたのか?』と聞くと、『いや、それはなかった』と答えて、『でも、監督が言うから……』と言う。
『それがミスだ。自分で試合を感じられなければならない。試合の匂いをかぎ取れなければ。相手が周囲にいるかどうかを把握できなければ。マッチプランを持って試合に入るだろう? それはいい。でも何回か同じアクションをしたら相手は対応を変えてくるだろう? レベルが上の相手だったらすぐに止められてしまう。それぞれの状況に適したアクションにチャレンジする。それがサッカーだ』」
指導者はもちろんさまざまなことを考慮してプランを考えるし、選手への指示を送る。その試合だけではわからないことがあるし、将来的なことへの布石として支持や取り組みを考えることだってある。毎回、ことあるごとに保護者や他の指導者から「なんで?」と聞かれたら、たまったものではないだろう。
でも「サッカーとはどんなスポーツか?」「どんな取り組みが子どもたちの成長にとって大切なのか?」という命題に対するアプローチが明らかにズレていると感じたら、ディスカッションは避ける必要はない。試合や大会の結果以上にそこへのアプローチのほうが大切ではないだろうか。例えば背が小さいGKだとゴール上部へシュートを打ったら届かないからと、ロングシュートばかりを狙わせたり、身体能力の差だけで何とかするためにとロングボールばかりを放り込むやり方で、子どもたちはどこまでサッカーの奥深さや仲間と積み重ねるプレーの楽しさを感じることができるだろうか。そうした感覚を育むチャンスがないままで、どうやって生涯にわたってサッカーのかけがえのなさを感じつづけることができるだろうか。
パプストの話が腑に落ちる。
「サッカーとはつながり合いのスポーツだ。ミスをしたらパスをもらえないとか、交代させられるなんて馬鹿げている。前向きな取り組みをしてのミスならどんどんチャレンジさせるべきだ。逆だよ。どんどんパスを送ってあげればいい。ミスをした子もミスをしたことを認めて、それを取り戻すために頑張ればいい。何度もチャレンジしていいのがサッカーだし、それをチームで支えるのがサッカーじゃないか」
<了>
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