自身の名前の由来になった象徴がそびえるパリの地で、史上最年少の金メダリストになった小田凱人。車いすテニス界に新たな歴史を刻んだその鮮やかなキャリアを、陰で支えてきた人物がいる。14歳の少年の夢に共鳴し、そのロードマップを描いた“影の立役者”たちの証言を通じて、若き世界チャンピオンが叶えた“2つの夢”を振り返る。
(文=内田暁、トップ写真=森田直樹/アフロスポーツ、本文写真提供=チーム凱人、I am a Dreamer 最速で夢を叶える逆境思考 @KADOKAWA Photo by Takeo Watanabe)
決勝の舞台で生まれた「名言」。コーチが抱いた予感
赤土の上を車いすがクルリクルリと、轍を刻み旋回する。
車いすの片輪を素早く外すと、チェアごと背中から、地面に倒れ込んだ。赤レンガを砕いて作られた橙色のコートに、真紅のウェアが溶け込み、白いバンダナが映える。
18歳の史上最年少パラリンピック金メダリスト誕生の瞬間は、まるで映画のワンカットのように美しく、大会史を彩る名シーンとして、この先も長く記録にも、記憶にも残っていくはずだ。
小田凱人の名前の由来は、彼がパリパラリンピックを制したことで、多くの人が知る所となっただろう。
パリを象徴する歴史的建造物、『凱旋門』がインスピレーションの素。それゆえに小田自身も、「子どもの頃から、パリの街に漠然と憧れを抱いていた」と言った。
「俺は、今日勝ったことで確定させたことがある。俺は、このために生まれてきた! この金メダルを獲るために生まれてきました」
勝利後のインタビューで小田が叫んだこの言葉は、その名の由来と相まって、たちまち日本を駆け抜けた。新たな時代や、新世代を象徴する名言。ただ小田に近い人たちにとっては、更なる重厚な意味を伴い、各々の想いとも共鳴していた。
「コーチの目線から見ると、正直、パリパラリンピックでの金メダルは、かなり高い確率であるのではと、凱人が12~13歳の頃から思っていました」
小田を10歳の頃から指導する貝吹健コーチは、迷いなき口調で言った。
そのような運命めいた予感は、パリパラリンピックの会場であり、テニスの四大大会“全仏オープン”会場でもあるローラン・ギャロスの、クレー(赤土)コートの特性にあるという。貝吹氏が説明する。
「一般の方の試合ですと、クレーコートは球足が遅くなるので、どうしてもラリーが長くなる。他のコートより一球、二球と多く打つ中で、戦術に長けている選手、そしてディフェンス力が高い選手が有利になりやすい。ですが車いすテニスは、全く逆なんです。クレーの上だと車いすは速く走れないので、一発のサーブやストローク力のある選手が有利。あとは、トップスピンでボールを高く弾ませるショットも効果的なので、まさに小田凱人のテニスとフィットしてるんです。
私が、初めてツアーコーチとして凱人に帯同したトルコのツアー大会もクレーコートでした。クレーコートでの彼の強さを14歳の頃から目の当たりにしていたので、オリンピック・パラリンピックの開催地がパリのクレーコートに決まった時点で、かなりアドバンテージがあるなと感じていました」
その思いが確信に変わったのが、2023年6月。小田が、全仏オープンで優勝した時だったという。当時、17歳の誕生日を迎えて間もない小田は、グランドスラム史上最年少優勝記録を打ち立てたのみならず、世界1位にも君臨した。これももちろん、最年少記録である。
金メダルへの順路を描いた影の立役者。強化に不可欠だった資金面のハードル
そしてこれらの記録樹立と、パリパラリンピックにつながる歴史的瞬間への順路を、貝吹氏とともに緻密に描いた人物がいた。それが、広告代理店に勤務する、軍司和久氏。貝吹氏も所属する、車いすを含めた若手テニス選手を支援する “トップアスリートグループ”と連携し、小田のマネージメントのアドバイスを行ってきた、陰の立役者である。
「パリの凱旋門から漢字を一文字取って“凱人”という名前にしたということもあり、『パリパラリンピックで金メダルを取るのが一番かっこいいよね』という共通認識は、僕らの間にはありました」
小田が金メダルを取り、取材やイベントラッシュもようやくひと段落し始めた頃、軍司氏は、嵐のような数年間を穏やかに振り返った。
スポーツビジネスの世界に造詣の深い軍司氏が、小田と出会ったのは4年前。9歳時に骨肉腫を患い、車いすテニスに打ち込む当時14歳の少年が宿す、「世界1位になる。同じような境遇にいる子どもたちのヒーローになる」との夢に、純粋に共鳴した。その背景にはもしかしたら、軍司氏自身も学生時代に癌を患い、命の期限を告げられた中で目にしたスポーツに「救われた」経験があるかもしれない。いずれにしてもその頃から、軍司氏は小田と共に夢への道を走り始めた。
4年後に金メダルを取るためには、それまでに多くの試合を経験し、ランキングポイントを積み重ね、トップ選手が集うグランドスラムに出場する必要がある。今では、グランドスラムの車いすドローも「16」に拡張されたが、当時は「8」。つまりは世界ランキング上位8名に入っていなければ、華やかな舞台に立つことすら不可能だった。
ただ海外遠征に出るためには、当然ながら元手がかかる。とりわけ車いすテニス選手の移動や滞在には、一般の選手より経費がかさむという。通常の大会では、選手は会場近くの安いホテルに滞在したり、複数の選手で家を借りるなどして、経費を抑えることが多い。だが車いす利用者にとって、滞在先がバリアフリーかどうか、そして会場や食事をする場所へのアクセスが容易か否かは大問題。それらを勘案すると、割高とはいえ大会オフィシャルホテルに泊まるのが、結果的には安心で安くつくという。加えるなら、車いすそのものも高額だ。
その資金源となるスポンサーを獲得すべく、軍司氏は貝吹氏とともに小田のプロモート資料を作り、頂点へのロードマップをも描いた。
15歳の時に作られたロードマップと1年前に定まったターゲット
小田が15歳当時に作られた資料には、次のように書かれている。
2022年、16歳で世界ランキング7位以内。
2023年、17歳でグランドスラム出場。
2024年、パリパラリンピックに出場しメダル獲得。
2025年、19歳でグランドスラム優勝。
2026年、5月8日の20歳の誕生日までに、史上最年少世界ランキング1位に到達——。
「最年少記録」にこだわったのは、それこそ若い小田が、企業や世間に最もアピールしやすいポイントだから。そして小田当人も含め軍司氏や貝吹氏にしてみれば、記録づくしのこの青写真ですら、控え目だとの実感があった。
実際に小田は2023年1月の全豪オープンで準優勝し、早々に世界1位が狙えるポジションにつける。ただ軍司氏は小田たちに、次のように伝えたという。
「映像や写真が残らない大会で1位になっても、人々の記憶に残らない。でも全仏オープンで世界1位になれば、映像や写真が一生残る。その後も事あるごとにその映像が使われ、凱人の人生は大きく変わるはず。だから、全仏で達成してほしい」
果たして小田がこの件を、どこまで意識したかはわからない。ただ結果的に彼は、多くの視線が集まるパリのセンターコートで、トロフィーと共に“最年少世界1位”の称号も得る。この頃から自然と“チーム凱人”のターゲットは、1年後のパリパラリンピックに定められた。
「選手に完敗」。パリで叶えたもう一つの夢とラストシーン
チーム凱人には、金メダルと共にもう一つ、共有してきた大きな夢があった。それは、車いすテニスの人気や選手の知名度を上げること。一般のグランドスラム決勝のように、満員の観客が集い、観る者が熱狂する空間を作り上げることだった。
その夢を実現する場として、パラリンピックは格好の舞台。特にスポーツ観戦の文化が根付き、テニス人気の高いフランスは、これ以上望めぬステージである。そこで軍司氏たちは、会場のファンを味方につけるべく、動いた。
「パラリンピックには、凱人のスポンサー企業の方たちがたくさん応援に来てくれていました。しかも、日本からだけでなく、欧州支社などヨーロッパ各地からもたくさんの方たちが来てくださいました。その方たちや、現地の日本人ファンの方に『どんな応援が分かりやすいですか』と尋ねたら、みんなが知っている『日本チャチャチャ』が良いのではと言われたんです。そこでダブルスでは『ニッポン・チャチャチャ』、シングルスでは『トキト・チャチャチャ』にしようということになりました」
その意志を共有した人たちが客席の複数箇所に散らばり、エールの音戸を取ってもらう。地元フランスの観客たちには、画用紙に応援方法の図説を描き、協力を呼び掛けた。
「それが凱人にどこまで届いたかは分かりませんが、彼も、応援が力になったと言ってくれたので」
そう一定の手応えを口にしながらも、軍司氏は笑みの端を少しゆがめて、こう続ける。
「でも応援に関しては、不完全燃焼なんですよ。はっきり言って僕らの力では、1万人の人々の心を動かせなかった。結局は凱人とアルフィーのプレーが、普段は車いすテニスを見ていない人たちも惹きつけ、声を出さざるをえない空間を作った。だから、選手に完敗だったと思っています」
完敗……と言いつつも、その表情は晴れやか。常に自分の予想を上回っていく小田の成長を、喜んでいるかのようだった。
小田が赤土に背から倒れ込んだ時、軍司氏の脳裏では、とある映像と、目の前のシーンが重なったという。
「WOWOWさんの『WHO I AM』というドキュメンタリー番組作成でドローン撮影を行った時、凱人が偶然、車いすごと背から倒れたことがあったみたいなんです。完全なアクシデントで、その時は本人も『倒れちゃったー』と恥ずかしそうに寝転がっていたそうですが、ドローンが撮影したその場面の映像を見た時、『これ、かっこいいですね』とめちゃめちゃ気に入ったらしく、しかも実際にそのシーンが番組でも使われていて。さらに、その後に発売した自伝でも、コートに寝転がった写真をわざわざドローン撮影して使ってたんです。その頃から凱人は、いつか試合でもやりたいと考えていたんでしょうね」
思い描いたロードマップも、予期せぬアクシデントすらも、すべてが吸い寄せられるように凱旋門のそびえる町に集束し、センターコートの赤土の上で像を結んだ。
それは、小田凱人というカリスマの下に集った人々が抱く、夢や願いの結実でもあった。
<了>
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