日本の夏の風物詩となっている全国高等学校野球選手権大会、「甲子園」は、日本の高校野球の象徴として存在している。しかし近年、この酷暑の中で行われる夏の甲子園や、一つのトーナメントにすべてが集約される大会の在り方、高校生の大会としてはあまりに大きくなりすぎている春夏の甲子園の現状を憂慮する声も聞かれるようになった。
作家・スポーツライターの小林信也氏は、「甲子園」をいたずらに聖地としてとらえ、議論の余地のないアンタッチャブルな存在にしていることがすべての元凶だという。
(文=小林信也、写真=武山智史)
根本的な改革が求められる日本の高校野球高校野球そのものが「ブラック部活だ」という議論は、ほとんど聞いたことがない。
なぜ、そういう指摘がないのか? それは多くの日本国民が、「高校野球が好き」だからだろう。高校野球と言うより、「甲子園が」と言った方がより当たっているかもしれない。
その陰で高校球児たちが多くの虐待的な現実を受け容れ、耐えているかは、直視されない。その虐待さえ、高校野球の魅力、成長に必要な糧と認識され、美化され続けている。すべては「夏の甲子園」の感動のために。
大人たちのセンチメンタルが、生身の高校球児の苦悩を棚上げしている。このような悲惨な現実をもう断ち切り、変えなければいけない。
高校野球が「ブラックだ」という現実は容易にいくつも挙げられる。体罰やイジメが「ある、ない」の次元ではない。「自主性を重んじる」と口では言っても、「自主的に」選択しなければいけない重い空気が高校野球部には漂っている。
丸刈りがそう、長時間の練習がそう、休日の自主練習がそう、監督に「服従」の常識もそう。
高校球児は、監督や、高校野球の常識に支配され、自由を束縛されている。
丸刈りは「強制ではない」という野球部は多いが、実際に髪を伸ばす部員がいたら、波紋を広げるだろう。私自身、シニア(中学硬式野球)の監督をしていた時、「髪型は自由」と徹底していたが、多くの選手は丸刈りだった。大会に行くと、髪の長い選手は連盟からお叱りを受けた。チームの方針より連盟の方針が優先するという常識がまかり通っていた。
「丸刈りが嫌だから、高校では野球をやらない」と言う中学生は少なくなかった。そんなことで野球をやめる少年がいる、その愚かさ。野球人口の喪失と、そんな理由で好きな野球から遠ざかる少年の微妙な葛藤を高校球界は放置し続けている。
先ごろ、新潟の高校が「長髪を推奨」というニュースが全国的な話題となった。こんなことがニュースになること自体、異常ではないかと思うが、異常と思う反応がほとんどなかったことに私は仰天する。
このような高校野球を大胆に改革し、健全な高校野球を実現しなければならない、と私は呼びかけている。そのための細かな提案はいくつもあるが、もはやそんな枝葉末節を変えても高校野球の病巣は改善できない。
高校野球の聖地はいかにして誕生したのか?高校野球はなぜ「甲子園」なのか?
しばしば甲子園は、「高校野球の聖地」と形容される。
これは端的に言って、ウソだ。
「聖地」とは、広辞苑によれば、
神聖な土地。神・仏・聖人などに関係ある土地。
特に、キリスト教でエルサレム、後にローマのヴァチカンなどの称。
とある。
現代における“聖地”が辞書的な意味よりもカジュアルな意味で使われていることは承知しているが、それにしても宗教的な用語を使っているのは過剰なイメージ誘発ではないか。
しかも、聖地と呼ぶことで、「絶対に動かせない場所」という概念を長年の間に築き上げてきた。一体、誰のため、何のために、甲子園を聖地化する必要があったのか?
なぜ甲子園にこだわるのか? 誰がこだわっているのか? その答えを探るためにまずは甲子園の歴史を紐解いてみよう。
熱心な高校野球ファンならご存知だろうが、第1回の全国中等学校優勝野球大会が開かれたのは1915年(大正4年)。舞台は甲子園球場ではなかった。甲子園はまだできていなかったのだ。会場は豊中グラウンド。阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道の造ったものだ。第3回からは鳴尾球場に移り、主催の大阪朝日新聞の提案に応じて阪神電鉄が造った甲子園大運動場に移ったのは第10回大会からだという。
その当時から、阪神電鉄および甲子園球場は、高校野球の開催にあたって球場使用料を主催者から取っていない。なぜなら、高校野球を開催すれば入場料収入が入る上に、沿線の開発が進んで価値が上がり、副次的に莫大な収益につながるからだ。
この歴史的経緯から明らかなように、「甲子園が聖地だ」という日本の常識には虚飾と欺瞞が隠されている。甲子園を聖地と信じ込ませることによって得をしているのは、まずその所有者であり、プロ野球も含めてビジネスを展開している阪神電鉄。なにゆえ高野連は、阪神電鉄一社に忠義を立て、他社所有のスタジアムへの移動や併設を検討しないのか?
商業的な仕組みの上に立つ「甲子園」を「聖地」と呼び、確固たる感動ビジネスを支持し続けている。そのために、高校生たちや野球少年たちが犠牲になっているとしても、そこに関心は向けない。
日本高野連は、すでに確立した伝統行事であるという実績を印籠として、春夏の甲子園を頂点とする高校野球運営を再考する姿勢を一切見せない。春夏合わせて約4週間、1ヵ月にも及ぶ大会期間の使用料がタダなのだから、これほどありがたいパートナーはいない、というわけか。甲子園の中継には放映権料も発生していない。
神聖化されることで見落とされる「ここがヘンだよ甲子園」大学スポーツは日本版NCAAとも呼ばれるUNIVASが発足し、遅まきながら改革へ向けた動きが始まった。もし高校でも同様の検討がなされるなら(その是非はともかく)、スポーツ・マネジメントのプロフェッショナルは、現在の甲子園と高野連の関係を「健全だ、公正だ」と判断するだろうか?
スポーツ・ビジネスが急成長を遂げる現代の感覚では、「これだけの収益が見込まれるイベントがタダでいいのか?」という発想をするべきだとの指摘もあるだろう。
価値のあるイベントを開催してあげるのだから、逆に協賛金を受け取るべきだというのが、昨今の常識だ。テレビ放映の中継局であるNHKにしても、これだけの価値あるコンテンツを無料で手に入れて、二次的な展開もほとんどしていない。
本来なら、数百億円の価値もあるのではないか。有望なコンテンツとして高校野球の全試合を活用し、収益を上げる。これを高校野球だけでなく野球の普及発展に役立てるビジョンを作って、野球界全体に貢献する発想は、いまの日本高野連にはない。そうした指摘をすれば、「高校野球は教育の一環だ」との答えが返って来そうだ。学校運営自体がビジネスだし、野球はそれに活用されている、そして高野連自体が多額のお金を動かす組織なのだから、妙な方便で努力しないことの理論武装にするのはもうやめた方がいい。
話を元に戻そう。
甲子園を「聖地」とし、絶対視する思考こそ、高校野球の根本を変えられない最大の元凶だ。
甲子園球場は、「裸の王様と同じだ」と私は感じる。行ってみればわかることだが、高校野球の聖地と呼ばれながら、その実態は、高野連が常日頃掲げている高校生らしさ、部活動のあるべき姿とはほど遠い。
テレビの番組撮影のため、甲子園球場のマウンドに立たせてもらった経験がある。もちろん、高校時代に憧れていたその場所に立つのは初めてだった。マウンドに立って、球場を見回したとき、私が感じたのは「神聖」な空気ではなかった。
(わっ、すごい広告!)
それが素直な驚きだった。内外野のフェンスからスタンドから、企業の広告が連なっていた。これほど沢山の広告看板のひしめく球場を見るのは初めてだった。なぜそこが、高校野球の聖地と呼ばれるのか、そのことだけ見ればまったく理解できなかった。
高校野球の開催中スタンドに入れば、多くの大人たちがビールやお酒を飲んでいる。高校野球のスタンドで、売り子さんが酒類を販売しているのだ。これも驚きの光景。高校野球の地方大会でビールを売っている風景はこれまで見たことがない。野球以外の他の競技でも、高校生の大会で酒類を売っている会場はあるだろうか?
ネットで検索すると、たびたび日本高野連に酒類販売をやめるよう求めている人がいるが、日本高野連はきちんと回答をしているものの、酒類の販売を正当化、やめる意向はないと明言している。これもおかしな話ではないか? 高校生の部活動が、大人たちのお酒の肴になっている。
“聖地”甲子園の弊害にも目を向けるべき甲子園は、やめよう!
高校野球の舞台を甲子園から他に移すこと。それくらい簡単なことを決断できずに、高校球児をブラック状態から救うことはできない。
甲子園以外の球場では野球ができないのか?
甲子園以外の球場だと、感動的な試合は生まれないのか?
もっと言えば、誰のための感動なのか? 見る人のため? ベンチに入れず、思いきり野球ができずに高校生活を終える控え選手たちの気持ちはないがしろでいいのか?
「甲子園に出たい!」という画一的な夢こそがそもそも高校野球を矮小化し、高校生自身を縛り付けているのではないか。
甲子園という舞台を変えることで、もっと多様な目標をそれぞれが設定する契機にもなると私は期待する。
加えて言えば、中学時代は学校の部活ではなく、リトルシニアやボーイズリーグ、ポニーリーグなどのクラブチームで野球に打ち込んでいた選手が強豪校の半数を占めるのに、高校ではなぜ部活動100パーセントになるのか? 高校生年代だって、クラブチームでやる道があってもいいだろうし、プロ野球チームがサッカーのJリーグのようにユース世代のチームを作ろうとしない理由も判然としない。すべては「甲子園」があるからだ。
甲子園を聖地化することは、もはや百害あって一利なし。
それは、利権を持つ人がそれを離さないための方策でしかない。
多くの意見があろうが、これをきっかけに様々な考えを寄せ合い、凝り固まった感傷をやわらかく溶かすきっかけになればうれしい。
<了>