7月20日に行われたJ1リーグ第20節、ホームに首位FC東京を迎えた清水エスパルスが0-2で敗れた試合後、立田悠悟は人目もはばからず涙し、悔しさをあらわにした。今季クラブ史上最年少で副キャプテンに任命され、日本代表にも選出された立田は、“ピッチ上では”感情表現が豊かで、チームの頼れるまとめ役に映る。
しかし、トップチーム昇格内定会見では極度の緊張状態で話も途切れ途切れだったほどの人見知りで、「人前に立って話したりすると、今でも相当汗をかく」という。
人見知りがきっかけでセンターバックになり、「海外での生活は無理」と語っていた若者が、プロになり、成長し、挫折を味わい、いかにして「海外に行く」という考えに至ったのか。東京五輪にかける想いも含め、本人の発言を振り返りながら紐解く。
(文・写真=田中芳樹、写真=Getty Images)
控えめな発言に終始した新加入内定会見
プロになって最初に訪れる関門。それはアマチュア時代と違い、大勢の記者、カメラの前に立ち自らの言葉で話さなければいけないということだろう。
2016年10月、当時まだ学生服姿の立田悠悟は、清水のクラブハウスでトップチーム昇格内定会見を行った。プロになって初めての“仕事”は極度の緊張状態。大汗をかき、話も途切れ途切れだった。途中、ついに言葉が出なくなり、一度カメラを止めて撮り直し、平岡宏章ユース監督に「しっかりしろ」と説教をされる場面もあった。そんな彼はこんなことを言っていた。
「(トップチームの)キャンプにも参加させてもらったが、手応えがあまりつかめなくて、昇格できる手応えがなかった。でも、日を重ねるごとにトップチームに入りたいという思いが強くなって、こうやって昇格できて本当に良かった。自分のストロングである競り合いや、ロングフィードというのは見てもらいたいけど……。今のままだと試合には出場できないと思うので、プレーの幅を広げていきたい」
こういった会見では、「開幕スタメンを狙いたい」、「1年目からチームの勝利に貢献する」と威勢のよい言葉が飛び出すもの。その中にあって、終始控えめな発言が目を引いた。
人見知りがきっかけで出会った“ポジション”そもそも、センターバックになるきっかけは、後ろ向きな理由からだった。
「小4で県選抜に入って最初に『好きなポジションに入っていいよ』と言われたが、みんな前をやりたがって……。人見知りということもあったし、余ったのがセンターバック。その時は自己主張というものがなかった」
彼らしいエピソードでもある。やがて身長も伸び始め、センターバックとして理想の体型になった。それでも、内定会見の時に当時強化部長だった伊達倫央氏は、こう明かしていた。
「今までトップに昇格した選手の中で、一番遅咲きの選手。中学校の時は飛び級もできず、高校入った時にも精神的な弱さも垣間見ることもあった」
「メンタルが全て」ということではないが、プロに入る直前まで、この優しさ、もっと言えば気弱さは、必ずしもプラスに働いているわけではなかった。
「初めて海外に行きたいという欲が出た」今年6月、コパ・アメリカに出場するA代表に選出され、ちょうど21回目の誕生日(日本時間)に代表初キャップを記録することになった。グループステージ第2節ウルグアイ戦、87分から守備固めとしての出場。大会を通して、出場はこの3分+アディショナルタイムのみに終わったが、海外との差を実感するには十分だった。帰国後、記者陣に話したのはこんな言葉だ。
「海外に行くことは一つの使命として考えている」
はっきりとした口調。そこには、かつてのような弱々しさはなく、挑戦しようとする者の強さがあった。
その転機となったのは、昨年3月21日から25日まで行われた、スポーツ・フォー・トゥモロー(SFT)プログラム 南米・日本U-21サッカー交流から帰ってきてからだ。この大会は、チリ、ベネズエラ、パラグアイという南米の強国と対戦し、立田はチリ戦の後半から、ベネズエラ戦はフル出場したが、結果は1分2敗。打ちひしがれて帰国した彼は、開口一番こう言った。
「初めて海外に行きたいという欲が出た」
これまで世代別の代表ではほぼ常連。海外の相手と初めて対戦したわけではない。それでも、この合宿を機に考えが180度変わった。
「これまでは、ただ単純に日本が好きで、海外での生活も無理だなという感じだったので、無理に海外に出なくても……と思っていた。でも、あのレベルでプレーしないとこの先レベルアップできないと思ったし、この人たちには敵わないなと思った。何もかも劣っていると感じたので、あのレベルで、あれが基準にならなければいけない」
身長の“過少申告”を改めて臨んだ副キャプテンの大役
チームでは、プロ1年目は、主にカップ戦要員。公式戦の出場は、ルヴァンカップの3試合のみだった。2年目は負傷者が相次いだ右サイドバックにコンバートされ、すべり込みで開幕スタメンを勝ち取り、リーグ戦にも出場するようになった。そして、今季から副キャプテンに就任。弱冠20歳でその大役を任されるのはクラブ最年少。異例の抜擢だった。
「正直、自分で良いのかなというのはある。でも、『リーダーシップをとる』という部分では責任を持ってやらなければいけない。自分へのプレッシャーという意味でも、副キャプテンをやらせてもらうことは大きなことだと思ったので、練習中に監督(ヤン・ヨンソン監督=当時)から『副キャプテンをやってほしい』と言われた時は、間髪入れず『ぜひお願いします』と伝えた」
数日後には、「立場も変わったので、気合いを入れた」と、それまでこだわりだった髪をバッサリと切り、丸刈り姿で現れた。さらに、もう一つ変化がある。これまで身長を「189cm」と“過少申告”していたが、今季から本来の「191cm」に改めたのだ。海外の選手を相手にしても見劣りしない高さ、その武器を改めて示すため。全てをかけて、チームをまとめる覚悟を見た。
念願叶って、ようやくプロの舞台でも本職のセンターバックとして出場することになった今季。ところが、チームが勝てないばかりか、毎回のように大量失点が続いた。「自分が出ている意味がない」と自らを責め、試合後に涙することもあった。同時に、「海外」という単語も、日に日に聞こえなくなっていた。
そのような状況の中で迎えた、コパ・アメリカへの出場。
「『こんな簡単にやられてしまうんだ』と勉強になった。スアレスは1人で何でもできてしまうし、日本ではチャンスにはならないところでも、簡単にチャンスにしてしまう。それを止めるだけの力が自分には無いというのはわかっているので、早く埋めなければいけないと思っているし、その分、今まで以上にもっとやらなければいけない」
「悔しい遠征にはなった」と振り返りつつも、刺激を受けて帰ってきた。再び海外志向が強くなり、自らのレベルアップという気持ちを取り戻したようだった。
冨安健洋から受ける刺激。そして目指すべき東京五輪あのトップチーム昇格内定会見から3年も経っていない。「人前に立って話したりすると、今でも相当汗をかく」と言うように、一向に慣れる気配もない。それでも、あの姿を目の当たりにした者からすれば、成長に驚かされるだろう。
そういえば、その時の会見で東京五輪についての質問が飛んでいた。
「東京五輪が決まった時から、自分はそこを目標にしている。そういうところに入る選手に、少しでも近づきたい」
開会式まで1年を切っている。今はどう思っているのか?
「想いはより強くなっている。あと1年しかなくて、コパ(コパ・アメリカ)に行って同い年の同じポジションの選手との差がこれだけあるのかと痛感した。自分としても余裕がないし、焦っている」
同い年の同じポジション=冨安健洋。19歳で海外に出て同年にA代表に選出された、今では日本の将来を背負って立つセンターバックになっている。立田の前にはいつもその冨安がいた。だがようやく、コパ・アメリカで同じ舞台までたどり着くことができたのだ。ただ余ったポジションについた、自己主張のなかったあの頃とは違う。東京五輪までに、今度こそ自分のポジションを奪いにいくつもりだ。
<了>