長きにわたりサッカーファンを魅了し続けた“規格外”のストライカー久保竜彦が歩み始めた新しい生活。それは現役時代から思い描いていたプランでもあり、ケガに悩まされ続けた彼だからこそたどり着いた境地でもあった。
人の多い都会が苦手だった久保が、「気持ちいい場所」で歩み始めた新たな人生とは?
引退した現在も実践する驚きのトレーニング法、独特な子育て論なども含め、第二の人生を歩むに至ったその人生観に迫る。
(文=中野和也、写真=中野香代)
誰しもに訪れる定年=引退後のプラン
プロフェッショナル・アスリートの定年は、ビジネスマンよりも20年以上早く訪れる。
その定年=引退を自分で決められる選手は、ほんの一握りだ。多くの場合は、契約をしてくれるクラブがなくなってしまうという辛い現実を突きつけられて、定年という壁が突然、目の前に立ち塞がる。そこに対して、常に準備をしていないと、次の人生が迷い道に入ってしまう。
実は、プロアスリートよりも安定性で勝っているように見えるビジネスマンたちも、定年という予定調和で大団円を迎える人は意外と少ないものだ。リストラ、転職、そして会社が崩壊する危険性もある。人生というのは常に剣が峰。微妙なバランスで立ち尽くしつつ、真っ白な霧に包まれた自分自身を信じて、細くて険しい稜線を歩いていくしかないのである。
久保竜彦のような個性は、いったい引退後の生活をどうデザインしているのか。彼がそういうことを考えるタイプにはとても見えなかった。なので、横浜F・マリノスへの移籍前、インタビューのついでに聞いてみたことがある。
「いずれ、引退の日がきますが、現役を退いたあとのプランは?」
「うーん……、農業っすかね」
「えっ」
「畑をやりたいって思っているんですよね」
まさか、その想いが現実化するとは、思ってもいなかった。
苦労の末に手にした「子どもの頃のようないい感覚」
2006年のFIFAワールドカップ出場が叶わなかった久保は、シーズン終了後に横浜FMの残留要請を振り切り、慕っていた奥大介を追うようにして横浜FCに移籍する。開幕の浦和レッズ戦で強烈極まりない40mドライブシュートを叩き込んだものの、そこからはずっとケガとの戦い。腰、膝、足首。身体中がボロボロとなって、日常生活にすら支障をきたす事態に。
痛みは横浜FM時代の2年目から、顕著になった。実はサンフレッチェ広島時代から違和感はあったという。それでもテーピングと痛み止めを飲むことで何とか対処できた。しかし、28歳という本来であれば全盛期を迎えていたはずの2004年、久保はほとんど本来のプレーができなくなる。痛みがなんとか収まった時は、異次元のプレーができた。しかし、もはや痛み止めでもマッサージでもテーピングでもどうにもならなくなった。ハードパンチャーが己の拳の強さで手を痛めるように、広島時代に彼の身体を見ていた野村博幸トレーナーが「特別」と表現した身体の柔らかさが生み出す強烈な捻りが、久保の骨を蝕んだのかもしれない。
必死の治療を重ねても、まったく回復の兆しが見られない。何が原因で痛みが出ているのか。そういえば、広島時代にもメディカル的には回復しているはずなのに、痛みがどうしても止まらないという時期があった。もしかしたら、その時と症状の重さの違いはあれど、根は同じだったかもしれない。
「タツはとても真面目でストイック。その彼があれほど、苦しんでいた」
当時、横浜FMのフィジカルコーチを務めていた池田誠剛コーチ(現広島フィジカルコーチ)は、横浜FMのメディカルスタッフの了解を得て、御殿場でスポーツクリニックを営んでいる夏嶋隆先生を紹介した。池田コーチ自身、夏嶋先生の治療を受け、前十字靭帯を切った膝が回復した経験を持っていた。
「足の指がおかしい。指がおかしいから膝もねじれるし、骨もずれる。指を矯正しないと腰痛は繰り返すばかりだから」
夏嶋先生の指摘に対し、当時の久保は聞く耳を持たなかった。「腰と指が関係しているわけがない」と思っていた。それでも腰を先生に触ってもらえば痛みは確かに和らぎ、試合もできる。指の治療をやると痛くて、翌日のトレーニングにも影響していた。久保は「腰だけの治療をお願いします」と依頼し、半年間ほど試合前に治療してもらっていたという。
しかし、その効果もやがて続かなくなった。腰はヘルニアを患い、背骨にもヒビが入っていた。横浜FCに移籍して驚愕のゴールを見せたあと、久保は自分のプレーがまったくできなくなる。5月12日、広島戦でベンチ入りして以降、彼はピッチから消えた。はりもやった。断食も試みた。山形に行って温泉での治療も行った。しかし、根本的な治癒にはならない。
2007年秋、横浜FCが御殿場でミニキャンプを張った時、疎遠になっていた夏嶋先生と再会。痛みがまったくひかず、引退も考えていた久保は、わらにもすがる気持ちで「もう一度、治療をお願いします」と頼み込んだ。朝・昼・晩、本格的な指の治療。日本代表FWが「ウギャー」と思わず叫んでしまう痛み。しかし少しずつ、痛みは快方に向かった。サッカーをやったらどうなるか、そこはまだ不透明だったが、少なくとも日常生活での痛みがなくなったことが、久保の心を軽くさせた。
横浜FCとの契約が解除になったあと、彼はトライアウトに参加。その直後、J2降格の憂き目を見た広島から復帰要請が届く。
「本当に嬉しかった。ああいうわがままを通す形で移籍したので、戻ってこれないと思っていたから。オファーは他にもあったし、J1からもあった。でも、自分がプロとしてサッカーでメシが食べられるようになったのも、広島が育ててくれたからだったし、自分のわがままで移籍させてもらって、そしてまた声を掛けてくれて。広島復帰を選択したのは、理屈じゃないんです」
信じがたいゴールを見せつけた。広島のJ1昇格やXEROX SUPER CUP(現FUJI XEROX SUPER CUP)の優勝にも貢献した。しかし、かつての輝きは戻らせないまま、2009年シーズン終了後に契約満了。翌年からツエーゲン金沢(当時JFL)でプレーしたが2011年に退団。タイのクラブからもオファーが届いたが、結局は引退を決意した。徹底したケアや治療を繰り返し、あれほど苦しめられた腰痛は消えていたが、久保竜彦という名前にふさわしいプレーが復活したとは言えなかった。
「ただ、夏嶋先生のところに連れていってもらったり、断食のことを紹介してくれたり。一番苦しかった時に、一番向き合ってくれたのは、(池田)誠剛さんでした。そしてそのおかげで、子どもの頃のようないい感覚が戻ってきたんです。この経験によってすべての考え方が変わり、今に至っています」
2012年、広島県廿日市市をホームとする廿日市FCでコーチ業をスタートさせる。だが、「ゆくゆくはS級ライセンスをとってJリーグの監督に」という希望はなかった。大人の指導をするつもりはなく、子どもたちと一緒にサッカーがやりたかった。廿日市FCのトップチームでプレーしたこともあったが、肉体的な限界を感じて、2年でやめている。
グラウンドではなく、山や里がフィールド筆者は何より彼のサッカーに対する感覚が面白かった。例えば、シュート。
「ボールに対して自分の足首をハンマーのようにできないと、いい球は蹴れない。それができるようになるためには、例えば靴に重りをつけてみるような感覚が大切だと思うんですね。足首に自分の全体重を持ってくるような身体の使い方を考えること。そういう感じで足を振るためには、余計な力みがあると力が分散してしまう。力を抜いて、感覚を何回も何回も覚え込む。そのためには、蹴り込まないといけない。砂袋とかを使って蹴ってもいいし、自分の現役時代はタイヤを蹴ったりしていた。子どもの頃は田んぼの中でボールを蹴っていた。そうなると、ボールは水を含んで重くなっているから、勝手に感覚を身につけていたのかもしれないですね」
彼は走るのも、グラウンドではなく、山や里がフィールドになる。吉田サッカー公園では練習場を飛び出し、あぜ道や山道をひた走った。引退後も広島近郊の武田山という低山に入り、山道を駆け抜ける。
「時に鹿やイノシシと会うのも楽しい」
昭和の大空手家・大山倍達が自分を鍛えるために行った山ごもり特訓のような日々が、広島復帰後の久保の日常だった。確かに山道は自然と負荷がかかり、下りの膝への負担に気をつければいいトレーニングになる。だが、さすがに今、下半身を鍛えるために山を走るサッカー選手は聞いたことがない。
食事に対しても彼は、独特の感性を持っている。引退直後の彼の言葉を紹介しよう。
「食はサッカー選手に限らず、大切なものだと思います。何を食べるか、それで1日が変わる。食い物がよければ、集中力も続く。特に、ケガをしたあと、そういうことを学べたんですよね。食事の回数は何回でもよくて、欲しい時に食えばいいと思うし、子どもにもそう言っています。ただ、自分でおいしいものを選んで、気に入ったものを食べる。ごはんも自分が食べられる量だけよそってもらって残さない。無理な時は無理をしない。
もっとも大切なのは、腹一杯にならないことですね。自分が気持ちいいって思えるくらいでやめるように、子どもらには言っています。例えば『今から、仕事』と言われた時に『お腹がいっぱいで動けへん』じゃダメなんです。言われたら『はい』って、パッと動けるように。そういう身体の感覚を、身につけておきたい。
食材はまず、匂いをかぎますね。もし違和感とかイヤな匂いを感じたら、安易に飲み込まない。口に入れてからでも、もし『うん?』と感じたら外に出すのもOK。そのかわりおいしいと感じたら、100回くらいずっと噛むこと。だから食事には、ちょっと固めの噛まないといけないようなものを、1つか2つは入れています。固い肉とかではなく、野菜の皮を切らずに入れたりとか。皮がついたままだと、煮ても固くなるから。「噛め」と子どもらに言ってもなかなか噛まないから、噛まないといけないような食材を入れる。米も固めですね。白米じゃなくて5分づきか3分づきの玄米を炊いていますね。あと、味噌汁は毎日。具がある時は、しっかりと入れますね。俺は、豆腐とワカメが好きなんですけど、嫁さんは何でも入れていますよ。
食材の質もできるだけ、いいものを。ただそれは高価なものという意味ではなくて、信頼できる人がつくったもの、という意味。そういう確かなものを子どもたちには食べさせたい。いいものを食べていることが、成長したあとに自分で判断できる材料になる。大人になれば、誰がどうやってどんなものをつくっているのかも、わからない場合が多いでしょう。だから、子どものうちからうまいものを、本物を食べること。きちんとした人がきちんとつくってくれたものを食わせるようにしていますね。だから外食も、行くお店は決まってきます。つくった人の顔を見ながら食べるのがいい。だからファミレスには行かないし、コンビニも行かない。それは、子どもらも同じです。仕方なくコンビニで済ませないといけない時は、裏のラベルを見て、何が入っているのかを確認しているって娘は言っています。
酒も大好きだけど、ラベルは確認する。元気な酒を飲むと、元気になるんですよ。酒蔵に見学に行ったこともあるんですけど、そこで『酒も生きているんだ』と改めて感じたんです。いい酒をつくっているところは、雰囲気も違う。生きているものを食ったり飲んだりしないとダメなんやなって、改めて思いますね。畑に行ったりもするんですよ。『食えるから』って言って土を食べるおばちゃんとかもいるんです。『この畑が力を持っているから、土もおいしい』って言うんですよ」
もし、彼が若い時からこれほど食やコンディションにこだわっていたとしたら、もっと長く現役を続けられたかもしれない。だが一方で、ケガで苦しんだからこそ食の大切さに気づき、独特の哲学も身につけたとも言える。
「ケガをしたあとは断食を始めたんですけど、身体が敏感になってくるんですよね、断食すると。年に何度か、山形にそういう場所があるので行っています。期間は2週間くらい。1週間は何も食べずに水だけ。次の1週間で徐々に、いつもの生活に戻していくんですよ。そういう場所に行って感じたのは、しっかりしている人はしっかりしたやり方っていうか、何かを知っているってこと。理屈にかなったことをやっているんだなと、おぼろげながら気づきましたね。岡田さん(武史/元横浜FM・日本代表監督)とか、凄い人もたくさん(その断食には)来るんですが、そういう人たちは考え方とか、どこかで何かがつながっている。食うことに対しての考え方とか、生活リズムとか。何をしなければいけないかがわかっている。こういうことって、身体が元気な人はあまり感じないものなんですね。
頭の回転が早い人も絵のうまい人も、言うことは一緒なんですよ。例えば腹一杯にしてしまうと時間がもったいない、とか。その人の感覚や言い回しは違うんですけど、言っている内容は、ほぼ同じなんです」
「気持ちいい場所」で歩み始めた新しい人生
子どもたちに対する教育も独特だ。「勉強しろ」とは言わない。特別な学校にも入れていない。一方で、例えばクーラーも暖房もつけない。スマホも持たせない。コンビニも禁止。ストイックといえばストイック。だが、こういう生活を娘二人にさせることは今の時代、決して簡単ではなかったはずだが、それでもまっすぐに育てている。
「当たり前ではないことをやり続けて、そこから感じることって絶対にあると思うから。だから寒い時は走ったり、相撲をとればいいって言っています。動けば温かくなりますからね。暑い時は窓を開けて外の風を通したほうが気持ちいい。スマホだって、欲しいんだったら自分の金で買えばいい。もし本当に欲しいんだったら、お金を貯めて買うでしょう。お年玉だってあるし、買おうと思ったら買える。欲しいから買ってとか言っている間は、本当に欲しいわけじゃないと思う」
長女は関西の名門外国語大に進学。次女はテニスで同年代の日本一。「子どもは勝手に育ちますから」と彼は言うが、ある意味での彼の厳しさが子どもたちを一つの方向に導いたことは間違いあるまい。
そして2018年春、久保は人生のハンドルを大きく切る。山口県光市。牛島という瀬戸内海に浮かぶ島に、将来は移住したいと準備を始めた。家も広島から牛島が見える港町に引っ越し。夫婦で地元の人々と触れ合いながら、試行錯誤の日々を過ごしている。
「広島の時も庭で野菜をつくったり、(農家をやっている)ばあちゃんのまねごとをしてみたり。山も走っていたから、音とか勾いとか、そういうモノが気持ちいいと思える場所に住みたいとずっと思っていました。いつか、そういう時期がきたら、一人でもいいからそういうことをやりたいと漠然と思っていたんです」
祖母は幼い竜彦少年に、こんな言葉をかけていた。
「やっぱり、自分でつくっているモノが、一番信用できる。自分で(米や野菜とかを)つくれるようにならんとダメやぞ」
人の多い都会が苦手だった久保は、いつかは「気持ちいい場所で生活したい」という希望を持っていた。福岡や宮崎にも場所を探しに行ったこともある。そんな時、徳山(現山口県周南市)でサッカー教室を行っている時に知り合った株式会社国際貿易の重岡敬之社長と出会う。牛島のことも、重岡社長に教えてもらった。今から6年ほど前のことだ。
「初めて光市の室積(牛島の対岸の町)に来た時は、本当に気持ちよかった。工業地帯ではなくて、パーッと開けていて。牛島に初めて渡ったのは、2018年3月くらいだったと思います。本当に気持ちのいい場所で、チャンスがあればここに来たいと素直に思った」
当初、塩づくりの話は立ち上がっていなかった。ただ、牛島には会社所有の畑があり、そこを「一緒にやってくれないか」という話だったという。軽トラックくらいしか通れない道しかなく、信号もない瀬戸内の小島に、彼は行こうと思った。サッカー教室やイベントの仕事を続けながら、牛島と共に生きたい、と。
2018年6月、室積に引っ越し。面白いと思うことは何でも取り組んだ。
「農業高校を卒業した若い子と一緒に畑をやっているんですけど、難しい。なかなか、うまくいかない。まだ、何もわかっていないですからね、農業のことは。島のおばちゃんがつくっている畑はきれいにできているのに、ウチのところは(苦笑)。食べるとおいいんですよ。だけど収量がなかなか。今はまだ、そういうところなんで、一緒にやっている子と失敗しながら学んでやっています。教科書とは絶対に違うじゃないですか。島の空気とか、(風の)流れもあるし」
収穫したほうれん草や大根、白菜などは、自宅の近くにある「室積シェアキッチン」というお店におろしている。国際貿易が経営している都会的な雰囲気のお店で、地元の人々にも愛されている。
この自然に満ちた場所で、久保はさまざまなことを学んでいる。例えば塩づくりは潮の満ち引きに関係していること。山と海はつながっていて、山の状態がよくないと魚たちに大きな影響を与えること。実際に体験するからこそ、そういう知識が体の中に入ってくる。それが理想と現実のバランスをとり、できることとできないことの境界線をつくっていく。
「ゆくゆくは、自分で家をつくって住みたいんですよ。牛島の気持ちのいいところで、気持ちのいい家をつくって。そういう生活をしながら、室積には(廃校になった)小学校のグラウンドがあるから、自分で草を刈って、ゴールも木でつくって、手づくりのピッチでサッカーを教えてもいい。でも、それはまだまだ先のこと。電動のこぎりを扱うようになったり、クギを打ったりと、まだまだそんな段階なんですよ。でも、教えてもらっている棟梁と木を一緒に見に行ってみたいし、ここの山で採れる木でいい家をつくりたい。一部屋くらいのこじんまりした家でいいんです。そこで寝て、メシ食って、いい眺めのところでゆっくりして。そういう家に住んでみたいんです」
引退後にこんな生活を送っている選手など、空前絶後だろう。そもそも、家族の理解が普通は得られない。愛妻・佳奈子さんの存在がいかに大きいか。
出会いは筑陽学園高1年生の時。久保竜彦という破天荒な男とクラスメイトになった佳奈子さんは、バレンタインデーにチョコレートを贈っているのだが、未来の夫はほぼ無視状態。ところが3年の時、彼は彼女を急に呼び出し、「俺と付き合え」とせまった。そこから付き合いがスタートするのだが、初デートはほぼ会話なし。卒業後もほとんど連絡がなく、「あれ、付き合っていないのかな」と感じたという。それが19歳の冬、クリスマス前にまたも突然、彼から電話があった。そこから、本格的に二人は彼氏と彼女になったのだ。
結婚は21歳。まだレギュラーに手が届きかけた頃で若すぎると周囲は難色を示したが、今西和男 広島総監督(当時)が「彼は私生活が安定すれば日本代表になれる逸材なんです」と両家を説得して、二人は祝宴をあげた。あれから22年。今西総監督の思惑どおり、夫は日本代表となったが高校生の頃の野生の薫りは失わない。ずっと自由であり、しかしずっとケガの苦しみと戦い続けた男のそばで、妻は寄り添い続けた。牛島でも自然に夫と共にやってきて、目の前の海で釣りを楽しんだり、近所の人々との交流を楽しんだり。可愛らしく、ほんわかとした優しい雰囲気は、20代の頃とまったく変わらない。
「今も、嫁さんと一緒に……、というか、いてもらっているっていうのが本当だけど(笑)。(嫁さんは)我慢強いなって思いますよ(笑)。(結婚して)本当によかったなぁと思いますね」
古くからの九州男児は、妻への感謝の言葉を滅多には口にしない。そんな中で久保竜彦が5年前、ポツリと口にした佳奈子さんへの想いは、今も変わらないのは明白だ。牛島の港を背景に撮影した二人の姿は、室積の海に映えてとても美しい。肩を寄せ合って寄り添う彼と彼女は、牛島の風景のような、優しさに包まれていた。
<了>