2020年の世界フィギュアスケート選手権は、残念ながら中止となった。出場を予定していた選手たちもさまざまな想いを口にしながら前を向いており、ファンもまた同じ気持ちだろう。世界選手権の名場面を振り返り、美しい記憶に身を委ねながら、新たなシーズンへと想いを馳せる連載の第4回。
突き上げた手は、まるで天にまで届くかのようだった。会場の空気を支配し、熱気を醸し出す。まさに奇跡を目の当たりにしたような感覚だった。2019年の世界選手権で演じた『Origin』、それは羽生結弦が自らの“原点”を取り戻し、新たに挑み続ける物語のプロローグだ――。
(文=沢田聡子)
2019年の世界選手権、羽生結弦が見せた魂の『Origin』記者席はリンクレベルよりかなり上だったが、羽生結弦の滑りを目の前で見たような感覚が今も残っている。通常はプレスの立場上、拍手もスタンディングオベーションも自重しているが、この時ばかりは背筋がぞくぞくするような『Origin』が終わると、自然に立ち上がっていた。総合2位に終わった羽生自身は達成感よりも悔しさが勝っただろうが、それでもあえて書きたい。2019年世界選手権(さいたま)のフリー『Origin』には、数字では表せない価値があった。
日本開催のこの世界選手権で、羽生には常に熱い視線が注がれた。2018年11月に行われたロシア杯の公式練習で右足首を負傷した羽生にとり、約4カ月ぶりの実戦ということもあっただろう。会場のさいたまスーパーアリーナは、練習用のリンクでも羽生が出てくるたびに熱気に包まれていた。
ショートプログラム『秋によせて』で、羽生は4回転を予定していたサルコウが2回転になってしまったためジャンプ1つ分の得点を失い、3位スタートとなった。この失敗について羽生は、ミックスゾーンで「好調がゆえに落とし穴に入ったのか?」と問われると、「外的要因なので、しょうがないといえばしょうがないんですけどね」と答え、言葉を継いだ。
「そこをうまく対処できなかったのには、自分のメンタルの弱さとかシミュレーション不足とか、そういうことがあると思います。本当にいい経験になりました」
羽生の言う「外的要因」とは、氷の状態だろう。世界選手権の会期は3月20~24日で、1日ごとに気温が乱高下する春先特有の気候が、氷にも影響したと思われる。競技終了直後に出演したテレビ番組で、羽生は「まず(ショートとフリーでは)会場の温度が全然違っていて」と説明している。
「今日(フリーの行われた23日)は外もすごく寒くて。ショートの日(21日)は外がすごく暖かったので、エッジ系ジャンプ(エッジ[スケート靴の刃の部分]を使って踏み切るサルコウ・ループ・アクセル)が結構はまりにくかったんですよね。だから、その感覚がちょっと難しかったです」
ショート後「とにかく、この悔しさをフリーに向けてうまく使いたいと思います」と誓った羽生は、2日後に行われるフリーまでの練習で、鍵となる4回転ループを繰り返し跳び続ける。練習終了後もリンクサイドに残り、動画での確認作業を続けた。フリー終了後、羽生は「周りからどういう目で見られようと関係なく、自分が絶対に納得できるまでやろうと思いました」と振り返っている。
「ノーミスだとしても勝てなかった」 美学を貫きつつ、さらなる進化を誓うフリー『Origin』の冒頭、羽生は4回転ループを3.45の加点がつく見事な出来栄えで成功させる。演技終了後、羽生は氷に触って感謝を伝えていたという。フリー終了後、羽生は「とにかく今日、ショートの日と全然違って、寒かったんですよね」と話している。
「それで氷がすごく締まっていて、6分間練習入った瞬間に『ありがとう、大好きだ。本当、跳ばせてくれてありがとう』と思っていました。エッジ系ジャンプというのは、エッジと自分の体と氷とのコネクションが一番大事なジャンプなので、特にループはすごく抜けやすい。だから『最後までひっかかってくれてありがとう』という気持ちでいました」
羽生は渾身のフリーを滑り切り、世界最高得点(当時)となる合計300.97をたたき出す。しかし、直後に滑ったネイサン・チェンも素晴らしい演技を見せ、合計323.42で即座に世界最高得点(当時)を更新。羽生は及ばず2位に終わった。
メダリスト会見で、羽生は「エッジ系ジャンプの氷の影響の受けやすさというのは、すごく感じてはいる」と語っている。ただそれでも、羽生の真骨頂がジャンプの流れの美しさにある以上、ループは譲れないジャンプだった。
「ループって、降りた時すごく流れるんですよね。やっぱりその流れを大事にしたいという気持ちは強くあるので、それを磨きつつ、確率の良くなるようなトウ系ジャンプ(フリップ・ルッツ[この大会で、4回転トウループは既に跳んでいる])も増やしていきたいなと今回思いました」
尊敬するライバルであるネイサンに敗れ、羽生は自らの美学を貫きつつ、さらなる武器も備えようと決意している。
「今回、ショート・フリーでノーミス(の演技を)しても、多分ギリギリで(チェンに)勝てなかったと思うんですよ。完全に実力不足だなと思う。やっぱりプライドは捨てたくはないので、エッジ系ジャンプは極めたいなとは思うんですけど、トウ系ジャンプ増やしたいなって今は思っています」
この時の羽生の思いは、今季グランプリファイナルで約2年ぶりに成功させた4回転ルッツに結実している。
最強のライバル、ネイサン・チェンとの至高の戦いで気づいた“原点”逆転優勝を期してフリーに臨んだ羽生は「氷上に立った時に『自分はこの試合で勝ち切るんだ』という気持ちを常に発しながら立っていたいな、とは思っていましたね」と振り返っている。その言葉通り、『Origin』を滑る羽生は、勝ちたいという意志の権化のようだった。羽生の強い思いが広がってさいたまスーパーアリーナを満たしていき、忘れがたい空間を創り出していた。
『Origin』は、幼い羽生が憧れていたエフゲニー・プルシェンコの伝説的なプログラム『ニジンスキーに捧ぐ』と同じ楽曲を使用して作られている。2006年トリノ五輪で金メダル、2002年ソルトレークシティ、2010年バンクーバーで銀メダルを獲得、世界選手権も3回制し“皇帝”と呼ばれるプルシェンコへのオマージュが『Origin』だといえる。
フリーから一夜明けて囲み取材に臨んだ羽生は、プルシェンコについて「自分が言うのもおこがましいんですけど、同類というか。勝ちにこだわる心の覚悟とか、スケートへの情熱っていうか、そういうものが一緒だなと」と語っている。それと同時に「正直な話をすると、(前季に行われ、連覇を果たした)平昌(五輪)後、結構ふわふわしていたんですよね」と語っている。
「シーズン始まる前も、目的がきっちり定まっていなかったのかなっていう感じがしていました」
向上心の塊である羽生も、五輪連覇という偉業を果たした後にモチベーションを保つのは難しかったのだろう。そんな時期に作ったこのシーズンのショート『秋によせて』とフリー『Origin』は、それぞれジョニー・ウィアーとプルシェンコのプログラムと同じ曲を使った、先人へのオマージュとなる作品だ。もう結果にこだわらず、自分のために滑ってもいいと感じた羽生の思いが、この2つのプログラムには込められていた。しかし、2019年世界選手権でチェンと熾烈な戦いを終えた羽生は、次のように語っている。
「“自分のために滑る”というのは、やっぱり素晴らしい尊敬し合えるスケーターたちと一緒に戦って、完璧な演技をした上で、そこで勝つことが多分一番うれしいですし、それこそが多分自分のために一番なるんじゃないかな、ということに気がついたので、ある意味また原点に戻れたのかな、という感じはしました」
「今こうやって、自分の原点がやっとこのシーズン通して見えましたし、やっぱりスポーツって楽しいなって。強い相手を見た時の湧き立つような、ゾワッとするような感覚をもっと味わいつつ、その上で勝ちたいなって思えたので、それのために(4回転)アクセル(への挑戦)も今はあるって感じですかね」
『Origin』に、羽生は「起源」という意味を込めている。羽生は、勝利への渇望こそが自らの原点であることを、この世界選手権でチェンという最強のライバルと戦うことで気づいたのだ。さいたまスーパーアリーナで滑った『Origin』が、見る者の心を揺り動かす力を持っていたのはそのためだったのだろう。
自らのジャンプの美学を示すためにエッジ系ジャンプの4回転ループを磨きつつ、勝つためにトウ系ジャンプの4回転ルッツも身につけること。また、原点である「強敵に勝ちたい」という思いに立ち返ったこと。2019年春にさいたまで方向性を見いだして進み始めた道を、今シーズンも羽生は歩み続けてきた。今季の結末となるはずだった世界選手権でのチェンとの勝負は幻となってしまったが、来季も羽生は自らの道を進んでいくだろう。
<了>