日本のフィギュアスケートの歴史において、最もファンから愛されたスケーターの一人だといえるだろう。その名を知られるようになった小学生の頃から、引退に至るまでの約15年。私たちが見届けたのは、2つの高く険しき目標へと挑み続ける姿だった。なぜ浅田真央はあれほどまでに愛されたのだろうか? その答えは、貫き続けた信念にある――。
(文=沢田聡子、写真=Getty Images)
2017年4月、引退会見での一幕2017年4月12日、東京プリンスホテルで行われた浅田真央の引退会見には、大勢の報道陣が詰めかけた。事前に告知されていた受付開始時間に会場に入ると、既に席は全部埋まっており、床に座って会見開始を待った。会見の中で、アスリート・浅田真央の根幹に触れる質問が2つ続けてされている。
――これまでの真央さんの競技人生の中で何度も出てきた言葉が、“ノーミス”だったと思うのですが、そこまで完璧・パーフェクトというものにこだわり続けたのには、どういう思いがあるんですか?
「やっぱり失敗はしたくないですし、これだけ試合に向けて練習してきているからこそ、誰もがミスしたくないと思うと思うんですけど……自分は、でも、試合にそんなに強いタイプではなかったので、あえて自分で言っていたんじゃないかなというふうに思っています」
――やはり真央さんといえばトリプルアクセルだと思うのですが、トリプルアクセルは、真央さんにとってどんなものでしたか?
「私は『伊藤みどりさんのようなトリプルアクセルが跳びたい』と思って、ずっとその夢を追ってやってきたので、本当に跳べた時はすごくうれしかったですし、自分の強さでもあったとは思うんですけど、その反面悩まされることも多かったです」
浅田のスケーター人生から切り離すことのできない、2つの言葉“ノーミス”と、“トリプルアクセル”。人々を魅了した浅田のスケーターとしての姿勢は、この2つの言葉抜きには語れないだろう。
自らを「試合にそんなに強いタイプではなかった」と評する浅田は、本当に勝負強さに欠けていたのだろうか。一般的には2010年バンクーバー大会、2014年ソチ大会と2回出場した五輪で金メダルを逃した印象が強いのかもしれないが、世界選手権を3回制している浅田を本番に弱いスケーターと決めつけることは、誰にもできない。
ただ、浅田が小学校5年生の時から5年にわたり指導した山田満知子コーチは、浅田がノービスで戦っていた2003年当時、浅田の素直な性格は試合で実力を出し切れないことにもつながっているという趣旨の発言をしている。ただその後の2004-05シーズン、浅田は緊張が伴う大きな大会でも勝ち切る強さを手に入れ、ジュニアグランプリファイナル・世界ジュニア選手権を制してシニアでの快進撃につながる道を歩み出した。
だが、13歳の頃は試合になると緊張のため練習でできることができなくなっていた自分を、競技人生を通して誰よりも感じ続けていたのは浅田本人だったのかもしれない。試合に強くないという自己評価を下しながら、日本のエースとして国際試合で戦い続けた浅田を支えていたのが、“ノーミス”の演技をしたいという強い意志ではないだろうか。
そして、“ノーミス”の演技を実現するために浅田が自らに課したのは、ストイックなまでの練習だった。15歳の浅田が親しいノンフィクション作家に語った言葉は、次のようなものだ。
「真央、本当はそんなに強くないよ。みんなが思っているようにはね。精神的に、ちょっと脆い部分がある」
「昔から、そうだった。練習では完璧なのに、試合で失敗してしまうとかね。だから、そうならないために、うんと練習する。絶対だいじょうぶ、って思えるまでやる。自信は、そこまでやらないとつかないから」(『浅田真央 age15-17』<文藝春秋/宇都宮直子著>より)
また、26歳での引退後に出版された競技人生を自ら振り返る著書『浅田真央 私のスケート人生』(新書館)で、浅田は次のように語っている。
「やっぱり、練習をしていないと、不安になってしまうからです。練習をしっかりしてきたということが、自分の自信になっていたんだと思います。お薬みたいな感じですね。精神安定剤というのかな」
“ノーミス”の演技をするには、浅田が選んだ“ひたすら練習する”というやり方以外に、ジャンプの難度を落とすという方法もある。フィギュアスケートのルールは競技の進化とともに変わってきたが、根本的な基準として常にあるのは、完成された演技が評価されるという考え方だろう。その考え方に基づけば、失敗の危険性がある大技を回避し、確実に跳べるジャンプだけでプログラムの構成を組むというやり方は姑息(こそく)でも邪道でもない。ただ、浅田はその方法を選ばなかった。浅田が選んだのは、当時女子でコンスタントに跳んでいるのは浅田だけだった大技・トリプルアクセルに継続的に挑戦し、なおかつ“ノーミス”の演技をするという険しい道だった。
小学校5年生の夏にトリプルアクセルに挑み始めた浅田は、1年後の野辺山合宿(全国有望新人発掘合宿)で初めて着氷させている。そして現役を引退する26歳まで、浅田は試合でトリプルアクセルを跳び続けた。調子によっては例外的に構成から外す試合もあったものの、トリプルアクセルに挑戦するという浅田の姿勢は競技人生を通して一貫していた。浅田は引退試合となった2016年全日本選手権のショートプログラム・フリーでも、トリプルアクセルに挑んでいる。
ただ、浅田自身はトリプルアクセルが好きなわけではないという。引退会見で「あえてトリプルアクセルに声をかけられるとしたら、どんな言葉をかけたいですか」と問われた浅田は、真剣に悩んだ末、答えている。
「『なんでもっと簡単に跳ばせてくれないの?』って感じです」
2010年バンクーバー五輪ではジャンプフォームが崩れていることに気づいていたという浅田は、トリプルアクセルを3本決めることで銀メダルを獲得した。その後ソチ五輪に向かうにあたり浅田は、すべてのジャンプを基礎から見直すという困難な作業に地道に取り組む。ジャンプがことごとく決まらなくなる時期も経験した浅田の鍛錬が結実したのが、伝説となっているソチ五輪のフリーだ。冒頭のトリプルアクセルを皮切りに、6種類すべての3回転ジャンプを着氷させたセルゲイ・ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番』は、“トリプルアクセル”を跳び“ノーミス”の演技をするという、浅田が競技人生を通して目指してきた滑りだったといえる。
追い求め続けたすべてが結実した、ソチでの4分間引退会見で、浅田はソチ五輪のフリーを振り返っている。
「ソチオリンピックは、やはりショートが残念な結果だったので、本当に気持ち的にはすごくつらい試合ではあったんですけど、フリーでああいう形で最高の演技で終えることができて、あの気持ちの状態から、バンクーバーからソチの4年間の思いをすべてその4分間に注ぎ込めたと思っています」
また、現役生活を通して最も印象に残っている演技は何かと問われた浅田は「うーん、難しいですね」と考えた末、「でもやっぱり、ソチのフリーかなというふうに思います」と答えた。
「今までの試合以上にちょっと落ち込んでいたり、つらかったりした部分もあったんですけど、それでもあれだけの挽回の演技ができたことに関して、すごく……それがオリンピックだったということが、一番良かったのかなというふうには思います」
引退会見に400人を超える報道陣が集まり、テレビで生中継されるほど浅田が愛された理由は、バンクーバー五輪で銀メダルを獲得したことだけではないだろう。「“トリプルアクセル”を跳び、“ノーミス”の演技をする」という高い目標に向かって真っすぐ歩み続けた浅田は、バンクーバーで逃した金メダル獲得が絶望的となったソチ五輪のフリーでも、その目標を見失わなかった。15歳でグランプリファイナルを制した少女が、26歳で迎えた最後の全日本選手権までトリプルアクセルに挑み続けた道程を見ていた私たちにとっても、浅田真央の物語は大切な宝物になっている。
<了>