日本野球界屈指のクローザー、横浜DeNAベイスターズの山﨑康晃。2年連続セーブ王に輝いた「ハマの小さな大魔神」は子どものころ、周囲から「プロは絶対に無理だ」と言われていたことをご存じだろうか?
どんな名選手にも、必ず「少年時代」がある。野球と出会ったばかりのその時期に、いったいどんな時間を過ごしたのか? どんな指導者と巡り合い、どんな言葉を掛けられ、どんな思考を張り巡らせて、プロ野球選手へとたどり着いたのか?
日本球界を代表する選手たちの子ども時代をひも解いた書籍、『あのプロ野球選手の少年時代』(宝島社)を上梓したスポーツライター・編集者の花田雪氏に、山﨑康晃の“知られざる秘話”を明かしてもらった――。
(文=花田雪、写真提供=宝島社)
「プロになる」早い段階から明確な目標にしていたプロ野球選手は、一体いつ「自分はプロになれる」と確信できるのだろうか。
小学生で野球をやっている選手の多くは、漠然とだが「将来はプロ野球選手になりたい」という夢を抱く。ただ、それはあくまでも夢であり、目標とは言い難い。
ささいな疑問ではあったが、そんな思いをずっと抱いていた私は、5月に発売された『あのプロ野球選手の少年時代』(宝島社)という書籍の取材でプロ野球選手から直接話を聞く機会に恵まれた。
そこで、長年心の隅にあったこの疑問を直接、当事者であるプロ野球選手にぶつけてみることにした。
もちろん、その答えは人によって違った。
例えば柳田悠岐(ソフトバンク)の場合は高校までは漠然とした夢で、「大学でスカウトが見に来てくれるようになってから」少しずつプロ入りを意識し始めた。秋山翔吾(シンシナティ・レッズ)も幼少期から「プロになる」という思いを強く持ってはいたが、より現実的になったのは高校時代、自身の名前が野球雑誌に載るようになってからだという。
そんな中、横浜DeNAベイスターズのクローザー・山﨑康晃は、かなり早い段階から「プロ入り」をより明確に、現実的な目標として設定していたという。
速いボールは投げるものの、致命的だったコントロールの悪さ小学2年生で地元の軟式クラブチーム「西日暮里グライティーズ」に入団した山﨑少年は、当時から身体能力に恵まれた有望な選手だった。当時、山﨑少年を指導した内山潤司さんはこう語る。
「一番印象に残っているのは足の速さです。私が本格的に指導したのは彼が中学校に上がってからですが、1年生の時点で、ベースランニングで3年生を負かすこともあったほどです。成長期真っただ中の中学生にとっての2学年差は、想像以上に大きいもの。でも、それをものともしない能力がヤマにはありました。ピッチャーとしてもボールの速さには目を見張るものがありましたね。……ただ、コントロールはかなり悪かったです(笑)」
能力は高い。足の速さも、ボールの速さも一級品。ただ、コントロールの悪さは致命的だった。
これについては後に話を聞いた本人も「ひどかったですよ(笑)」と認めている。
特に小学生のころは、ストライクゾーンどころかバックネットやグラウンドのある荒川土手の看板にボールが直撃してしまうことも多々あったという。
「球は速いし、他に投げられるピッチャーがいないからマウンドに上げてもらっていましたけど、とにかくストライクが入らないから試合が全然進まない。チームメートも『いつ試合が終わるんだ』と思っていたんじゃないですかね(笑)」
「プロ野球選手になるために」、中学入学時に決意したこと笑いながらそう語る山﨑だったが、その一方で「プロ野球選手になる」という思いは当時から強く持っていた。
「小学生まではクラブチームだったので土日祝日しか練習ができませんでした。だから、チームメートと一緒に平日の放課後は近くの公園で練習していましたね。中学に上がる時は近所の学校に野球部がなかったので、母親にお願いして野球部のある学区外の中学校に行かせてもらいました。土日はクラブチームで野球をやって、平日は中学の陸上部で足腰を鍛えるという選択肢もあったんですけど、僕自身もっと野球をプレーする時間を増やしたいという思いがあったので、決断しました」
中学では学区外の尾久八幡中学校(荒川区)の野球部とグライティーズを掛け持ちし、とにかく毎日のように「野球漬け」の日々を送った。それも全て「プロ野球選手になる」目標を達成するためだ。
「周りからは『絶対に無理だろう』と言われましたよ。『あんなコントロールでプロに行けるわけないだろう』って。でも、そう言われることで逆に火がついたというか……やってやろうという思いが芽生えたのかもしれないです。当時はとにかく毎日投げ込んでいたので、技術的にも中学生でかなり成長できたんじゃないかなと思います」
山﨑康晃がかなり早い段階から「プロ入り」を目指したのは、その家庭環境も大きく影響している。小学生のころ、両親が離婚。母親に引き取られ、2学年の上の姉と共に母子家庭で育ったのだ。
「母親には負担もかけていたと思います。子どもながらに家があまり裕福ではないことも理解していましたし。それでも、学区外の中学校や、高校、大学まで行かせてもらえた。勉強も得意ではなかったので、野球以外にやることが見つけられない、という思いもありました」
原点にあるのは、小学生時代の「荒川の土手野球」周囲からは「無理だ」と言われたプロ入りという目標。しかし、中学で野球に没頭する毎日を過ごし、実力をつけた山﨑少年は、セレクションを経て東東京の名門・帝京高校へと進学。そこから亜細亜大学に進み、2014年ドラフト1位でDeNAから指名されるまでになる。
少年時代の指導者・内山さんは日本を代表するクローザーになったかつての教え子について、こう語る。
「小学生まではとにかく楽しく野球をやって、中学生で一気に野球と付き合う時間が増えて本人の意識も変わっていった。それが成長につながったんだと思います。高校、大学では名門といわれるところで、後にプロ入りするようなレベルの高い選手たちに囲まれてたくさんの刺激も受けたようです。本人の努力と、環境がうまく重なってあれだけの選手になれたのかなと思いますね」
内山さん自身は、当時の山﨑少年について「とにかく楽しそうに野球をやっていた印象が強い」と語る。ただ、本人は楽しい野球を続けながら、心の中で少しずつ「プロになる」という夢をより現実的な目標へと昇華させ、それを実現させていった。
「楽しい野球から始まったのは間違いないですけど、そこから少しずつ『勝ちたい野球』に変わっていくんです。楽しいから勝ちたいし、勝つから楽しい。でも、根っこにあるのは荒川の土手野球ですね。僕の原点は、そこにあります」
(山崎が少年時代に汗を流した荒川河川敷のグラウンドは、今も変わらず西日暮里グライティーズの練習拠点になっている)
「楽しむ」と「勝ちたい」、どちらも大切多感な幼少期に、野球の楽しみを覚え、いつしか「勝ちたい」思いが強くなる。同時に「プロになる」という夢をよりリアルに目指すようになる。
目指すべきものがあるから、そこに向かって進むことができる。
「楽しくなかったらやらないし、勝ちたいと思わなかったらやれない。どちらも大切です。でもやっぱり『プロになるんだ』と強く思えたことが原動力になったのは間違いないですね」
荒川の土手で野球の楽しさを学び、そこにプロ入りという目標が加わったことで、大きく成長を遂げた山﨑康晃。
インタビューの締めに、「指導者の方や子どもたちにメッセージを」とお願いすると、本人の口からはこんな言葉が飛び出した。
「まずは『楽しむ』こと。指導者の方にも子どもたちにも、そこから始めてもらいたいです。そうすれば勝手にうまくなるし、勝手に勝ちたいと思うようになる」
野球人口の減少が叫ばれている今、野球界に一番大切なのは、シンプルだがこれに尽きるのではないか――。
そう感じた、一言だった。
<了>