2月27日に開幕した明治安田生命J2リーグ。初戦で難敵・ジュビロ磐田に競り勝ったFC琉球がその後も好調を維持し、リーグ4連勝を飾った。実はJ2初年度の2019年にも開幕4連勝を記録してその後は失速しているが、クラブの倉林啓士郎会長は「2年前とは明らかに違う」と語る。資金難を乗り越えてコロナ禍においても盤石の財務基盤を築き、「新スタジアム構想」や「アジア戦略」にも邁進するFC琉球。クラブが目指す“かけがえのない存在になる日”とは。
(文・写真=宇都宮徹壱)
「J2の最低ライン」でも過去を思えば夢のような話FC琉球が飛ばしている。ホームにジュビロ磐田を迎えての開幕戦に1−0で勝利すると、その後もレノファ山口(2−1)、ザスパクサツ群馬(2−0)、V・ファーレン長崎(3−1)と勝ちっ放し。やはり4連勝のアルビレックス新潟に次ぐ2位につけている。実はJ2のルーキーイヤーだった2019年にも、琉球は開幕4連勝しているが、その後は失速して14位で終了。昨シーズンも16位に終わっている。今季の好調ぶりは本物なのだろうか?
「2年前の4連勝は、J3から昇格したばかりで勢いがありましたし、対戦相手も分析しきれていない部分もあったと思います。その後、早々に主力を引き抜かれて苦労しました(苦笑)。それに対して今季は、主力級の流出を最低限に抑えることができましたし、昨年に足りていなかった部分を補って修正していく積み上げもできています。実際、自分たちのサッカーができていない時間帯が続いても、しっかり結果を出せているところに成長を感じますね。その上での4連勝なので、2年前とは明らかに雰囲気が違います」
そう語るのは、FC琉球の代表取締役会長、倉林啓士郎氏である。クラブ経営に携わるようになったのは2016年12月から。当時J3だった琉球の収入は、倉林氏によれば「2億(円)に届かないくらい」。それがJ2に昇格した2019年には6億円超え。今年は7億円から7億5000万円を目指している。「それでもJ2の最低ラインですからね」とは当人の弁だが、破産すれすれの時代を思えば夢のような話である。
FC琉球の設立は2003年。2006年にJFL昇格を果たし、2014年に創設されたJ3にも名を連ねることとなる。順調にカテゴリーを上げていったものの、一方で資金ショートの危機が常態化し、代表者は何人も変わった。およそ安定経営とは程遠い状況は、倉林氏が社長に就任する時点まで続く。そんな彼も、もともとは株式会社イミオというスポーツメーカーの経営者。FC琉球とは、ユニフォームサプライヤーとしての関わりでしかなかった。
沖縄からJクラブがなくなるのは「日本サッカーの大きな損失」「僕自身、Jクラブの経営をやりたいと思ったこともないし、沖縄には縁もゆかりもありませんでした。それでも3年間にわたるサプライヤーとしての付き合いの中で、選手や現場のスタッフとも仲良くやっていたんですが、当時の社長から『このままでは1〜2カ月後には選手に給料も払えないし、Jリーグのライセンスも失ってしまいます』と言われて。今にして思えば、巻き込まれ事故みたいなものでした(笑)」
FC琉球とのサプライヤー契約がスタートしたのは、J3クラブとなった2014年からであった。そんなクラブから支援の依頼を受けた時、倉林氏は「1000万円くらいなら」と思ったそうだ。しかし2016年時点での赤字は1億2000万円。結局、8000万円の増資を実行し、イミオと兼任でFC琉球の社長に就任することとなる。後者については、東京・沖縄間のエアチケット以外、ほぼ無報酬のボランティア社長だった。
「もちろん、周りからは相当に反対されました。Jリーグの人からも『けっこうしんどいですよ? 琉球は』みたいに言われました(苦笑)。ただ、幼少からずっとサッカーをやってきた人間からすると、Jリーグクラブが北海道から沖縄まであることが大事だと思うんです。沖縄からJクラブがなくなってしまうのは、日本のサッカー界にとっても大きな損失です。確かに『火中の栗』だったかもしれないけれど、沖縄という魅力的な土地のクラブであれば、磨けば光るものがあるという確信はありました」
倉林氏によれば、琉球の経営に関わるようになった5年間の自身の仕事は「ほとんど営業と資金調達」だったという。その成果は、社長就任から1年で数字に反映された。スポンサー数は56社から130社。平均入場者数は1561人から2508人。それぞれ230%と160%の伸びである。加えて同年には、クラブ設立14年目にして初めてJ2ライセンスを取得。これにより、2019年のJ2昇格への道筋が整った。それにしても未経験だったクラブ経営で、これだけの結果を出す秘訣は、どこにあったのだろうか?
「クラブ経営のほうがシンプルでわかりやすい」「自分がこれまでやってきたスポーツメーカーの仕事と比べると、プロスポーツクラブの経営はシンプルに感じられました。収入面でいえば、スポンサー料と放映権料、チケットとグッズという感じでだいたい決まっている。コストについても、毎月ほぼ一緒で固定費がメインです。商品がチームであり、勝ち負けがあるという特殊性は、確かにあります。それでも普通に数字だけを見ると、クラブ経営のほうがシンプルでわかりやすいですね」
そう語る倉林氏が、一方で重視したのが「Jクラブの公共性」。FC琉球はプライベートな会社ではなく、よりパブリックなものとして位置づけていかなければならない──。「何を当たり前なことを」と思われるかもしれないが、その当たり前な感覚がFC琉球には決定的に欠如していた(おそらくは設立以来、クラブ存続のことばかりに血道を上げてきた結果であろう)。こうした姿勢を根本から是正したのも、倉林氏の大きな功績である。
「社長になってみて気がついたのが、FC琉球というクラブの価値が、沖縄県内では高くなかったということです。県民から愛されている雰囲気がないし、株主として関わろうという人も限られていたし、自治体との関係性も決して良いものではありませんでした。ですので、まずは『FC琉球は、沖縄県にとって必要不可欠な存在』というイメージにまで持っていくことが必要と考えました」
J2に昇格した2019年6月、倉林氏はクラブ会長に就任。現場の経営は小川淳史社長をはじめ、廣﨑圭副社長兼スポーツダイレクターや荻原直樹営業本部長といった、倉林氏が信頼を寄せる人材に引き継がれている。この5年間、経営の立て直しとクラブイメージの転換に加えて、増資や地元金融機関からの融資協力などによって得た資金調達額は7億円を超えた。「コロナ禍においても財務基盤は盤石です」と、現会長の表情は明るい。
倉林会長がコミットする「新スタジアム」と「アジア戦略」会長就任後、倉林氏が積極的にコミットしているのが、新スタジアム構想とアジア戦略である。このうちスタジアムについては、現在のタピック県総ひやごんスタジアムにはメインスタンドに屋根がないこと、そして那覇市内から離れているためにアクセスに難があることが課題となっている。現在、那覇市内に建設計画が予定されている新スタジアムについて、倉林氏はこう語る。
「完成すれば、空港や中心市街地から最もアクセスのよいスタジアムになります。ただ、計画そのものが当初の予定から遅れていて、現時点での完成予定は2026年から28年。もちろん、クラブだけで何とかなる話でもないんですが、雨の日にずぶ濡れでも応援してくれているサポーターの姿を見ると、本当に申し訳ない気分になります。だからこそ那覇に、アクセス抜群で屋根のあるJ1規格のスタジアムを可能な限り前倒ししてつくること。それは今、自分が最もコミットすべき課題と捉えています」
一方のアジア戦略については、すでに台湾サッカー協会、さらにはタイやベトナムのクラブと提携を結んでおり、アジアの代表クラスの選手獲得にも動いているという。もっとも、北海道コンサドーレ札幌などの先行事例を見ると、やや出遅れた感は否めない。その事実は認めつつも「沖縄ならではのアドバンテージがあると思っています」と倉林氏は力説する。
「沖縄の気候は、東南アジアに近いんですよ。ベトナムやタイの選手が札幌に行って、雪を見たらテンションが上がるかもしれないけれど(笑)、こっちに来たらストレスフリーの環境に感じられると思います。イージーエントリーとして、まずはウチで活躍してもらって、それから他のクラブにステップアップしてもらってもいい。ASEANの選手にオファーする時も、そういったメリットを提示し、選手獲得に有利に働いています」
日本地図を見れば南の端っこにある沖縄だが、アジア全体で俯瞰すればASEANの玄関口に位置している。FC琉球がアジアのタレント獲得のハブとなり、空港から10分の場所に最新のスタジアムがつくられたなら──。倉林氏へのインタビューを終えて、さまざまな妄想を楽しんでいる自分がいた。FC琉球というクラブが、沖縄にとってかけがえのない存在になる日は、そんなに遠くない話なのかもしれない。
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